娘には二人とも学習雑誌の付録をテレビの上に飾ってすませた。(哲




2012ソスN3ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0332012

 たらちねの抓までありや雛の鼻

                           与謝蕪村

の眼差しや口元などの句は見たことがあるが鼻は初めてで、思わず飾ってあるお雛様の鼻をしげしげと見てしまった。三越、と書かれた桐の箱に入ったこのお内裏様は私の初節句の時のものなので、今どきのお雛様より小さめで、顔の長さが2.2センチに対して鼻の長さは0.7センチ、鼻筋はすっと通って高く、私の指でも十分抓(つま)める。小さい頃お母さんが、高くなれ高くなれ、と鼻を抓んでやらなかったんだなあ、と作者に思わせるようなお雛様は、きっともっと愛嬌があって素朴でありながら、どこかさびしい顔立ちだったのだろうか。低い鼻にコンプレックスのある身としては、そのお雛様に親近感を覚えると同時に、そういえば同じDNAを持つ妹も、姪の鼻を抓んでいたなあ、けっこう真剣に、とふと思い出した。『新歳時記 虚子編』(1951・三省堂)所載。(今井肖子)


March 0232012

 春の口紅三越の紙の色

                           須川洋子

快な配色。単純化されたものの配合。須川さんは楸邨門の中では数少ない「もの」派だった。「遠足の列大丸の中とほる」の田川飛旅子さんをひとつのお手本に学んだ。「寒雷」のような観念派の中の「もの」派は花鳥諷詠派がいう「もの」とはかなり違う。ほんとうに「もの」なのだ。神社仏閣老病死や季語の本意に依った「もの」ではなくて情緒をあらかじめ設定しない純粋な「もの」。そこらへんに転がっているあらゆる物象を対象とするのだ。周囲の圧倒的な数の「観念」派に抵抗する中で鍛えられた尖鋭的な「もの」派だ。須川さんが逝ってしまった。(「季刊芙蓉」2012・春・第91号)所載。(今井 聖)


March 0132012

 松林だっただっただっただった

                           広瀬ちえみ

月11日から一年がめぐろうとしている。あの日、あの時に家族や故郷を失った人たちの哀しみ、無念さは言葉に尽くしきれるものではないだろう。「だった」の繰り返しに、身近な松林を起点にあの津波で一瞬にして失われたあらゆる海岸の松林への思いが込められている。人がその木陰に憩い、海水浴に遊んだ松林は無残にもなぎ倒され二度と戻ってはこない。作者は仙台市在住の川柳人。震災当日は長年務めた学校で激しい揺れに襲われたと書いている。「何が起きたのかと思うような激しい揺れだった。それでも何が起きたのかわからないまま死ねないと思った。Sさんに助けられ廊下の窓から逃げた。」四階建の校舎はしなるように揺れ、グランドには亀裂が入り、建て増しした繋ぎ目が十センチ以上離れてしまったという。その後の混乱は想像に難くない。それでも遠くの地で無事を気遣う同人の暖かい呼びかけに応えつつ共に雑誌を編集し、3か月後に刊行した。「花咲いて抱き合う無事と無事と無事」「うれしかり生姜を下ろすことさえも」「垂人」15号(2011)所載。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます