それでなくとも転びやすいのに、今日の外出はこわいなあ。(哲




2012ソスN3ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0132012

 松林だっただっただっただった

                           広瀬ちえみ

月11日から一年がめぐろうとしている。あの日、あの時に家族や故郷を失った人たちの哀しみ、無念さは言葉に尽くしきれるものではないだろう。「だった」の繰り返しに、身近な松林を起点にあの津波で一瞬にして失われたあらゆる海岸の松林への思いが込められている。人がその木陰に憩い、海水浴に遊んだ松林は無残にもなぎ倒され二度と戻ってはこない。作者は仙台市在住の川柳人。震災当日は長年務めた学校で激しい揺れに襲われたと書いている。「何が起きたのかと思うような激しい揺れだった。それでも何が起きたのかわからないまま死ねないと思った。Sさんに助けられ廊下の窓から逃げた。」四階建の校舎はしなるように揺れ、グランドには亀裂が入り、建て増しした繋ぎ目が十センチ以上離れてしまったという。その後の混乱は想像に難くない。それでも遠くの地で無事を気遣う同人の暖かい呼びかけに応えつつ共に雑誌を編集し、3か月後に刊行した。「花咲いて抱き合う無事と無事と無事」「うれしかり生姜を下ろすことさえも」「垂人」15号(2011)所載。(三宅やよい)


February 2922012

 硯冷えて銭もなき冬の日暮れかな

                           林芙美子

のなかも心のうちも、冷えきっている冬の日暮れである。使われることのない机の上の硯までもが冷えきってしまっていて、救いようがないといった様子。硯の海が干上がって冷えているということは、仕事がなくて心も胃袋も干上がっていることを意味している。けれども、その状態を俳句に詠めたということは、陰々滅々としてどうにも救いようがないという状況とは、ちょっとニュアンスがちがう。いくぶんかの余裕が読みとれる。辻潤は芙美子の詩集『蒼馬を見たり』を「貧乏でもはつらつとしている」と高く評価したが、この句は「銭もなき」ことにくじけてはいない。この句には自注がある。芥川龍之介の作品を読んで、「こんなのがいいのかしらと、私も一つ冷たいぞっとするようなのを書いてみようと、つくって、当分うれしかった」というのである。「こんなのが……冷たいぞっとするような……うれしかった」という言葉に、したたかささえ感じられる。貧乏を詠んだ芙美子らしい句だけれど、どこかしら余裕があるように思われる。19歳のときに初めて俳句を作ったという。「桐の花窓にしぐれて二日酔」「鶯もきき飽きて食ふ麦の飯」などがある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


February 2822012

 囀りの裏山へ向く仏足石

                           松原 南

足石とは、釈迦の足裏の形を刻んだ石である。インドから伝わり、日本では奈良の薬師寺にあるものがもっとも古く、天平勝宝5年(753年)の銘がある。釈迦を象徴するものとして礼拝の対象とされ、比較的方々の寺社に見られるというが、わたしが実際に仏足石を認識したのは俳句を始めてからだった。同行者は皆、さして興味を引くでもなく、石灯籠や五輪塔を見るのと同様の反応だったが、その巨大な造形は寺の庭にあっていかにも風変わりに映った。ひとつひとつの足指には丹念に渦が刻まれ、前日の雨がわずかに溜ったそれは、宮澤賢治の「祭の晩」に出て来る大男の姿が重なるような深々としたあたたかさが感じられた。掲句は大きな仏足石が爪先を揃えて裏山に向けられているという。山は今、若葉が芽吹き、鳥たちの囀りであふれている。やはりうっかり里に下りて、助けられた少年に「薪を百把あとで返すぞ、栗を八斗あとで返すぞ」と言い残し、山へと去っていった金色の目をした男の足跡に思えてならない。〈薄氷を動かしてゐる猫の舌〉〈雫より生れし氷柱の雫かな〉『雫より』(2011)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます