バレンタイン・デーでもあるが、父の命日でもある。今日納骨。(哲




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February 1422012

 バレンタインデーか中年は傷だらけ

                           稲垣きくの

年とは何歳あたりが該当するのだろうとあれこれ見ていくと、一般的に40代から50代をいうようだ。あれこれのなかには「ミッドライフクライシス(中年の危機)」という言葉も目についた。一途でがむしゃらを許される青年期を越え、ほっとひと息つく頃、老いの兆しらしきものを次々と自覚し始める。「折り返し地点」という言葉に、やり直しの限界に直面していることに気づき焦燥感がつのる。そのせいか、この不安定な時期にいきなり恋に落ちてしまうこともあるようだ。悲哀というには重過ぎるが、それでも年齢を重ねれば、どんな人間でも心の傷も蓄積される。いくつもの傷痕や、まだふさがりきっていない傷をあらためて眺めては、とりあえずため息をついてみたりするが、実のところ、そのうち癒えるものだという経験もまた持ち合わせている。それもまた傷つきながら体得してきたものではあるが、それさえ中年というふてぶてしさに見えて情けなく思う。バレンタインデーなどという「告白の日」のばかばかしさにあきれながらも、その甘さに酔いたいときもある。また傷を増やすとわかっていても、いまだ愛がなにものにもかえがたい力を持つことを信じるのも中年が手放すことのできないロマンだろう。『冬濤』(1976)所収。(土肥あき子)


February 1322012

 佐保姫のときどき白き平手打

                           嵯峨根鈴子

保姫(さほひめ)は、秋の竜田姫と対になる春のシンボル。春の野山の造化をつかさどる女神である。いつもおだやかで上品に振る舞っている佐保姫が、何にそんなに怒ったのか、ときに突然平手打ちをくわせるというのだから、びっくりしてしまう。これはつまり、おだやかなはずの春という季節が、ときどき思いがけない悪天候に見舞われるということだ。「白き平手打」というのだから雪、それも激しい雪を暗示しているのだろう。今年の佐保姫はまだ登場したばかりだが、ご乱心にもほどがあると言いたいくらいに、最初から平手打ちの連続である。このぶんでは満開の桜にも雪をもたらしかねない勢いだ。十年か二十年に一度くらいは桜に雪の現象は起きるけれど、佐保姫さま、今年はこのあたりでお怒りを鎮めていただいて、どうかおだやかで温暖な春の日々をお恵みくださいますように。『ファウルボール』(2011)所収。(清水哲男)


February 1222012

 これ以上進まぬ二人蜜柑むく

                           関根優光

滞している二人がいて、二人しかいなくて、言葉も尽きて、目も合わせられず、手もちぶさたにやおら蜜柑を手にとり、男は少しもてあそんでからむき、女はちらりと男を見てから蜜柑をとりむく。もし、この句がこの情景を詠んでいるならば、男に脈がある。がんばれ男。停滞している二人がいて、二人しかいなくて、言葉も尽きて、目も合わせられず、手もちぶさたにやおら蜜柑を手にとり、女は少しもてあそんでからむき、男はちらりと女を見てから蜜柑をとりむく。もし、この句が、この情景を詠んでいるならば、女に脈がある。がんばれ女。けれども、二人、脈絡もなく蜜柑をむいているならば、互いに脈はないのかもしれない。作者関根優光さんは、昨年喜寿を迎えられた俳友で、成蹊高校時代に は同校教諭・中村草田男の薫陶(くんとう)を受けた。掲句は、今年1月21日、「蛮愚句会」で提出された作。よって、「蜜柑」は冬の季語。ご本人云わく、最初は炬燵に執着してしまって、一週間、うんうんうなって出来た句、とのこと。「みかん」という語感はかわいらしく、「蜜柑」という漢語は、ひそやかにあまい。蜜柑は二人を結びつけられるだろうか。二人は蜜柑に導かれることがあるだろうか。私の師匠、赤塚不二夫なら、「それは未完なのだ!」とおっしゃるでしょう。(小笠原高志)




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