光りはすっかり春ですが…。北国の大雪、被害が出ませんように。(哲




2012ソスN2ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0222012

 不景気が普通になりて冬木の芽

                           大部哲也

ブルの頃は都会から遥か離れたところに住んでいたのでお祭り騒ぎのような景気の良さとは無縁だった。それでも仕事が無い、物が売れないといった不平不満を周囲で聞いたことはなかったし、今日より明日、頑張れば給料は増えるといった楽観論が巷にあふれていた。それから二〇数年、不良債権、株価低迷、リーマンショック、欧米危機と、明日にも経済が破綻するかのような脅しをたえず受け続けている気がする。物は溢れているのにこの不安感の正体は何なのだろう。掲句では連続する「ふ」の頭韻が不景気な世の中冬木の芽をうまく照応させている。気象協会の本によると、一日の平均気温が五度から六度を上回ると冬眠をしていた落葉樹の枝先へ水分や養分が運ばれ冬芽が膨らみ始めるという。暦のうえでは立春だけど、世間はずいぶんと長い冬だ。春は来るのだろうか。『遠雷』(2011)所収。(三宅やよい)


February 0122012

 夜の雪わらじもぬがで子を思ふ

                           勝 海舟

の降る夜に外出から海舟は帰って来た。離れて暮らす吾子のことをふと思い出し、「しばらく会っていないが、この雪のなかでどうしているだろう?」と、わらじを脱いであがるのも忘れて、そのまま玄関で、しばし吾子のことをあれこれ気にかけている。子を思う親の心である。あるいは、もしかすると吾子のところから今帰って来たばかりで、何かしらフッと気にかかっている、ということなのかもしれない。「わらじもぬがで」だから、よほど強く気にかかることがあったものと思われる。雪降る夜の静けさが、吾子のことをいつになく思い出させてしまったのだろう。親は幾つになっても、何につけ子のことを思うものである。海舟は「政治家や医者とちがって、俳諧は金を捨てて楽しむからいい」と語ったことがあると言われている。俳諧とは本来そういうものだったはずであろう。他に「梅盛り枝は横たて十文字」がある。高橋康雄『風雅のひとびと』(1999)所載。(八木忠栄)


January 3112012

 胴に鰭寄せて寒鯉動かざる

                           山西雅子

は水温が八度以下になると冬眠する。巨木のような胴体に、ひたりと鰭を寄せている寒鯉は、今水底深くごろりと沈む。眠るといってもまぶたのない魚たちのこと、当然目は開けたままである。人間とはあまりにもかけ離れた姿であり、きわめて忠実な描写であるにも関わらず、どこか掲句の鯉に人間の懐手めいた動作を重ねてしまうのは、龍鯉や夢応の鯉魚などの伝承のはたらきも作用していると思われる。俳句を鑑賞するとき、そこに描かれた言葉以上の想像することを戒めて「持ち出し」と言うそうだが、抗いがたくそれをさせてしまうのもまた定型詩が持つ強力な磁力であろう。「星の木」(2010年秋・冬号)所載。(土肥あき子)




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