一月は「往ぬる」二月は「逃げる」三月は「去る」。名言です。(哲




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January 3112012

 胴に鰭寄せて寒鯉動かざる

                           山西雅子

は水温が八度以下になると冬眠する。巨木のような胴体に、ひたりと鰭を寄せている寒鯉は、今水底深くごろりと沈む。眠るといってもまぶたのない魚たちのこと、当然目は開けたままである。人間とはあまりにもかけ離れた姿であり、きわめて忠実な描写であるにも関わらず、どこか掲句の鯉に人間の懐手めいた動作を重ねてしまうのは、龍鯉や夢応の鯉魚などの伝承のはたらきも作用していると思われる。俳句を鑑賞するとき、そこに描かれた言葉以上の想像することを戒めて「持ち出し」と言うそうだが、抗いがたくそれをさせてしまうのもまた定型詩が持つ強力な磁力であろう。「星の木」(2010年秋・冬号)所載。(土肥あき子)


January 3012012

 袋綴ぢのヌード踏まるる春霙

                           柴田千晶

末(2月4日)は立春だ。しかし歌の文句じゃないけれど、今年は「春は名のみの」寒さがつづきそうだ。霙(みぞれ)だって降るだろう。句はまことに荒涼たる光景を詠んでいる。作者によれば、場所は横浜の物流倉庫で日雇い仕事をするための人々を運ぶマイクロバスの駐車場だそうである。働き手には女性が多いらしい。そんな場所に、週刊誌の袋綴じページが散乱しており、疲れた女たちが容赦なく霙に濡れた靴で踏んでゆく。男のちっぽけな暗い欲望を満たすためのページを、避けるのも面倒と言わんばかりに踏みつけて行き過ぎる。私はかつて週刊誌の仕事をしていたので、似たような光景は何度も目撃して覚えているが、そのたびにやはり心が痛んだものだった。袋綴じであれなんであれ、そこには作る側のなにがしかの思いが籠められている。けれども、そんなことは当事者だけの感傷にすぎなく、バスを待つ人々は何の痛みも感じることはないのだ。それが人生だ。人さまざま、人それぞれ。霙と泥に汚れた週刊誌の破れたページから、立ち上がってくるうそ寒い虚無感がやりきれない。「俳句界」(2012年2月号)所載。(清水哲男)


January 2912012

 分針は太き泪となる日暮

                           守谷茂泰

しかに分針というのは、秒針や短針よりも太くできています。つまりそれだけ人が見やすいようにしてあるということです。よほどのことがないかぎり、秒針を見る必要などありませんし、また今が何時かはたいてい把握していますから、短針を見る機会もあまりありません。つまり時計というのは、ほとんどの場合分針を見るということなのです。それだけ分針は、人によりそった「時」といえます。その分針が泪のようだというのですから、垂直に垂れ下がっているのでしょう。つまり「30分」を指しており、日暮れというのですから、時刻は「5時半」なのでしょうか。ちょうど一日の仕事を終えて、帰り支度をしている時刻です。一日に起きるべきことはひととおり起き、どんな日だったかの結論が出ている頃です。掲句にあるいちにちは、おそらく辛いものであったのか、あるいは切ないものであったのでしょう。帰り道に腕時計を見る目には泪がたまっています。さて時刻はというと、分針はその太さの中で、これも目にいっぱいに泪をためています。分針のゆっくりとした動きが、なぜか作者の不器用な生き方に重なって見えてくるのです。それでも時がたてば分針は、確実に上に向いて動いてゆきます。同様に作者の思いも、分針を追いかけるようにして、泪をぬぐえるところへ移ってゆければと、思います。『現代歳時記』(1997・成星出版)所載。(松下育男)




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