桜の開花時期は平年並みというけれど、この寒さで遅れるのでは。(哲




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January 2212012

 春待つや空美しき国に来て

                           佐藤紅緑

年の冬は実に寒く感じられます。出勤時には、コートのボタンを首までしっかりとめて、マフラーをし、手袋をし、さらに耳当てまでして、勢いをつけて家を出ています。昨年から単身赴任で住み始めた土地は、間違いなく横浜とは空気の硬さが違うように感じられます。本日の句。作者の名前を見れば、佐藤愛子の『血脈』という小説の中に描かれた紅緑の姿を思い出さずにはいられません。「 佐藤家の荒ぶる血」は、明らかにフツウの人よりも激しく、感受性の強さも尋常ではなかったのでしょう。しかし、句を読んでみれば思いのほか当たり前の感覚で出来ており、特段な工夫がなされているわけではありません。旅先で詠んだ句なのでしょうか。どこの国を指しているのか、明確にしていなことが、むしろ工夫と言えるのかもしれません。『日本大歳時記 冬』(講談社・1981)所載。(松下育男)


January 2112012

 頬杖の風邪かしら淋しいだけかしら

                           池田澄子

しいは、人恋しいということ。会いたいと思う人に会えない、それが淋しいのだ。悲しい、の積極性に比べて、ふと気づくと淋しいのであり、泣いたらすっきりした、とか、時間が経ったら薄まった、ということはなく、むしろ時が経つほど淋しさの度合いが深まることもあるだろう。頬杖には、ため息がついてくる。冬ならば、自分の指先の冷たさを頬に押しあてて、なんとなくぼんやり遠くを見ながら、小さくため息をつく。どこかしんみりしてしまうのは、体調がもひとつなのかな、風邪かしら。ちょっと不調な時、何気なく口にする言葉だが、だけ、はむしろ、風邪なだけ、と自分に言いきかせているようにも思える。句集『拝復』(2011)は、一句一句の文字が等間隔なので、句の長さはまちまちである。まさに手紙のように、一頁の余白から、作者の声が聞こえるような句集であった。(今井肖子)


January 2012012

 空井戸に夜をしづめて冬深し

                           中山政彦

校三年生の作品。いわゆる進学有名校の生徒さんだ。載っているのは高校生の俳句コンクールの作品で一人三句出し。この人の他の二句は「月氷るカルテに赤き筆記体」「冬の夜の海のごとくに振子時計」。月氷るの句はなんとなく怖ろしいカルテの雰囲気が出ているし、冬の夜の句はダリの絵のような感じがある。技術も感覚も伝統咀嚼度も三句とも完成度が高いのだ。俳句は老人の文芸であるという言葉があってそれは何も揶揄ばかりの意味ではなくて、加齢とともに見えてくる、或いは齢を加えなければ見えないものがあるという肯定的な言い方でもあるのだが、十八歳のこういう三句をみると我ら「大人」は果たして加齢の効能を俳句にどう積んできたのか恥ずかしくならないか。俳句がなめられてはいけない。我ら六十代、七十代、八十代の高みを見せてやろうではないか、ご同輩。『17音の青春』(2008)所載。(今井 聖)




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