世間にはやっと日常のリズムが戻ってきた。ついていかねば。(哲




2012ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1012012

 落涙に頁のちぢむ寒昴

                           田代夏緒

は一旦濡れると一見しなやかに見えながら、乾いてからおどろくほど醜くでこぼこする。水を含んだ紙の繊維が好きな形に戻ってしまう理屈だが、それが涙となると単なる水滴とは違った表情を見せる。掲句では、ぽとりと本の上に落ちた涙を振り払うように目を転じると、窓の外には星が輝いている。それが鋭く輝く寒昴であることで、しめっぽい情から切り離すことができた。ところで、ずっと以前に読んだ本の、思いがけない場所で自分の涙の跡に再会することがある。その時とはまったく違う人物に感情移入していることに、時の流れを感じながら、当時の季節や部屋のカーテンの色など、まるで涙で縮んだ紙がほどけていくように、思い出がたぐり寄せられてゆく。「月の匣」(2011年3月号)所載。(土肥あき子)


January 0912012

 猿が岩を叩いてやまず「春よ来い」

                           鎌倉佐弓

の「春よ来い」には、狂気に通ずる不気味な願いを感じる。童謡の「あるきはじめた みいちゃん」などのように、ほのぼのとした感じはない。猿が岩を叩いている。いっこうに叩くのをやめる様子はない。見ていると、なにかただならぬ猿の仕草に、作者はだんだん釣り込まれていく。いったい、この猿は何を思って、そんなにも執拗に叩きつづけているのだろう。単純に空腹だからなのか、どこか身体が不調なのか、それとも……。むろん猿は何も言わないから、作者は推測するしかない。わからないまま、作者はあてずっぽうに「春よ来い」とつぶやいてみた。と、この言葉が眼前の猿の行為と結びついたとき、そこに立ち現れたリアリティ感にびっくりしている。なるほど、猿は春の早い到来を祈って、懸命に岩を叩きつづけているのかと納得のいく気がしたのだった。むろんこれらは作者の憶測であり想像でしかないけれど、こういうことは日常的な意識処理としてはよく起きることだ。そして、この猿の願いに導かれるようにやってくる春は、決して牧歌的なそれではなく、禍々しい季節なのではあるまいか。一読者の私は、そんな想像までしてしまった。『海はラララ』(2011)所収。(清水哲男)


January 0812012

 新年会すし屋の細き階のぼる

                           筒井昭寿

年、外資系の会社に勤めていた私にとっては、通勤した初日から年度末決算に追われて残業となり、新年気分などはすぐに吹き飛んでしまいます。それでも、「新年会」という理由が付けば、みんなで帰りに一杯やろうかという気分も出てきます。ちょっとした区切り目にはなるし、ささやかに生きて行く勇気も、酔いとともに多少はみなぎってきます。今日の句、読んでいるだけで、情景が目にまざまざと浮かんできます。小さなすし屋の、隅に様々な物が積んである狭い階段を、よろけながらのぼってゆきます。階下で用をたした後のことなのでしょうか。ふすまの向こうには、聴きなれた同僚たちの愉快な声が聞こえてきます。あたたかなざわめきの中へ、今年も再び入ってゆけることの喜びを感じながら。『角川俳句大歳時記 新年』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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