七草粥でバランスをとらねばならないほどの物は食べてないな。(哲




2012ソスN1ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0712012

 生きている人がたくさん初詣

                           鳴戸奈菜

の句には昨年、年が明けてほどなく出会った。とても印象深かったのだが一月も半ばになっていて、初詣の句を鑑賞するには遅すぎるだろうから来年の一句目はこの句で、と決めたことを記憶している。父が亡くなって一年と少し、たくさんの生きている人、を実感している作者に共感したのかもしれない。初詣の人混みを、生きている人がたくさん、と言う作者に、何人ものかつて生きていた大切な人の影を色濃く感じたのだった。そしてさらに一年が経ち、あらためてこの句を読むと、生きている人がたくさん、の言葉は、素直に人間の生命力なのだとも思える。読み手は常に生きている人、生き続ける俳句とはいったい、などと考えもする年頭である。『露景色』(2010)所収。(今井肖子)


January 0612012

 先生も校舎も好きだ定時制

                           中西秀斗

校生の俳句といっても実質は大人の俳人と同じレベルだ。野球で甲子園に出るような高校が仮に社会人野球のチームとやっても互角以上の試合が予想されるように、俳句だって知情意のバランスのとれたいわゆる進学校の高校生は技術にも感覚にも秀で、大人の俳人をくすぐる術だって全部こころえている。じゃあそういうこましゃくれたハイティーンに死角はないかというとこれがあるんだな。これに対抗するには自分の現実を泥臭く詠うに尽きる。憤懣やる方ない現実や欠落している自分の部分をさらけだすこと。深刻ぶらないであっけらかんと。彼らに一番欠けているところだ。この句の作者は定時制。昼間は多くが働いている人たちだ。先生が好きだは常套。演出じゃなくてたとえほんとうにそうであったとしても「詩」にはならない。凄いのは「校舎」だな。学校が好きは定番陳腐だが、「校舎」は真実そういう気持がなければ出てこない言葉。昼間商店や工場で働いている人にしか言えない。進学校の生徒には絶対詠えない。作者は学校という概念じゃなくて現実に触れえる校舎という物象が好きなんだと気づいたとき胸が熱くなる。ついこの間まで高校で俳句部を指導していたのでつい戦法のような言い方になってしまった。すみません。『17音の青春2008』所載。(今井 聖)


January 0512012

 声のして達磨の中の達磨売

                           原 雅子

起物の達磨を売るのが達磨市だが、西日本に住んでいたときにはあまりお目にかからなかったように思う。縁起ものの達磨を身近に置いたこともなく、達磨に目を入れるのは選挙や受験合格の特別イベントだと思っていた。川越の喜多院、群馬の高崎を尋ねたときに白目をむいた大小様々の達磨が山と積まれて売られているのに圧倒された。赤い達磨の中から威勢のよい達磨売りの声が響く。高崎では眉が鶴、髭が亀にデザインされたものが人気のようだ。今日が仕事始めの方も多いだろう。今年一年平穏無事に働けて、一つでも多くの達磨に黒々と大きな瞳が入れられることを願わずにはいられない。『束の間』(2011)所収。(三宅やよい)




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