ソスソスソスソス髣晢ソスソス句

December 24122011

 初雪やリボン逃げ出すかたちして

                           野口る理

が来そうな空の色や空気の匂い、さっきまでとは違う底冷え感には、なんとなくわくわくさせられる。初雪が最初で最後の雪、ということも多い東京にいるからそんな悠長なことを言っていられるのかもしれないが、この句の初雪も、そんな都会の初雪だろう。あ、雪、と見上げているうちに、街のクリスマスプレゼントを包んでいるリボンがするするとほどけて空へ空へ。舞い落ちる淡く白い雪と舞い上がる色とりどりのリボン、たくさんの人がただそれを見ている映像が浮かぶ、渋谷のスクランブル交差点あたり。いつでも逃げだせるリボン、明日は丁寧にほどかれしまわれて、次のチャンスを待つことになるのだろうか。『俳コレ』(2011)所載。(今井肖子)


March 1532012

 ふらここを乗り捨て今日の暮らしかな

                           野口る理

さい頃はぶらんこほどステキな遊具はないと思っていた。学校のぶらんこはいつも順番待ちで心ゆくまで楽しめないので学校が終わると遠くの公園まで自転車で遠出してとっぷりと日が暮れるまでぶらんこを漕ぎ続けたものだ。ぶらんこの板に乗り、勢いをつけて地上を漕ぎ離れると何だか空に近くなり、高く高く耳元で風が鳴るのも心地よかった。おとなになって戯れに乗ってみたことは何度かあるけど、子供のときに感じた爽快感とは程遠いものだった。遠い幼年期の思い出が薄い光に包まれているように、ぶらんこもすぐそこにありながら大人にとっては手の届かないもののようだ。「ぶらんこを乗り捨て」「今日の暮らし」いう中七の句跨りの切れに、単純な時間の経過ではなく、幼年期からおとなになるまでの時間的隔たりが凝縮されている。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


October 18102012

 友の子に友の匂ひや梨しやりり

                           野口る理

の頃は赤ん坊や幼児を連れている若い母親を見かけることがほとんどない。子供の集まる場所へ縁がなくなったこともあるのだろう。乳離れしていない赤ん坊だと乳臭いだろうから、目鼻立ちも整い歩き始めた幼児ぐらいだろうか。ふっとよぎる匂いに身近にいた頃の友の匂いを感じたのだろう。中七を「や」で切った古風な文体だが、下五の「梨しやりり」が印象的。「匂い」の生暖かさとの対比に梨が持つ冷たい食感や手触りが際立つのだ。「虫の音や私も入れて私たち」「わたくしの瞳(め)になりたがつてゐる葡萄」おおむね平明な俳句の文体であるが、盛り込まれた言葉にこの作者ならではの感性が光っている。『俳コレ』所載。(三宅やよい)


January 2812014

 襟巻となりて獣のまた集ふ

                           野口る理

頃動物好きを肯定しながら、あらためて振り返るとアンゴラやらダウンやら、結構な数の動物たちがクローゼットに潜んでいる。幼い時分には、尾をくわえた狐の襟巻きなどもよく見かけたものだが、最近は動物愛護の観点から生前の姿そのまま、というかたちは少なくなったようだ。たしかに今見ればグロテスクと思わせるそれであるが、はたして殺生をしたうえでこのぬくもりがあるのだとはっきり自覚することも大切なのではないかとふと思う。食品も衣料も、今やなにからできているのかさだかではない時代にあって、まごうことなき狐が集う光景は、豪華というより真っ正直な感じがしていっそ心地良いように思われるのだ。『しやりり』(2014)所収。(土肥あき子)


February 0822014

 白梅や百年経てば百年後

                           野口る理

の樹齢はそれこそ百年二百年、その花はほころんでからこぼれるまで淡々と早春を咲き続ける。風が吹いても、さして大きく揺れることもない静かな強さを持つ梅の木の前に作者は立っているのだろう。そんな時、理屈ではなくふと感じるもの、ヒトについてこの世について、考えたいような考えたくないような、言葉では到底うまく表せない何か、それがこの句から伝わってくるような気がした。見せかけの単純さや作為は見えず、作者自身がしかと存在している。それは句集のあとがきにある、「今」や「思い」を伝える手段としてではなく「俳句」そのものに向き合い作品にしていきたい、という作句姿勢によるものだろう。<曖昧に踊り始める梅見かな ><家にゐてガム噛んでゐる春休み >。『しやりり』(2013)所収。(今井肖子)


February 1322014

 春疾風聞き間違へて撃つてしまふ

                           野口る理

の突風はかなりのものだ。気象協会が出している『季節と暮らす365日』によると「初春は春と冬がせめぎあい、日本付近を通る低気圧は発達しやすく、風が強まる」とある。春疾風は寒冷前線による嵐で、このあとは日本海側は大雪や海難、太平洋側は乾燥や強風による大火事に警戒が必要、と記述されている。春疾風そのものが不吉な予感を含んだ季語なのだ。何を聞き間違えて引き金をひいてしまったのかわからないが、撃たれたのは人間だろうか獣だろうか。それにしたって「聞き間違へて」撃たれたらたまらない。撃たれた側は悲劇だけど、この言葉に、何とも言えない諧謔が含まれている。耳元で逆巻く春疾風の雰囲気も十分で、季語の本意を捉えつつ今までに見たことのない面白さを持った句だと思う。『しやりり』(2013)所収。(三宅やよい)


June 1262014

 梅雨寒し忍者は二時に眠くなる

                           野口る理

よいよ梅雨本番だけど、今年は暑くなったり寒くなったり気温の乱高下に悩まされている。梅雨に入ってからも油断はできない。真夜中の2時は俳句によく使われる時間でもある。ツイッターやオンラインゲームで夜中の遊び相手も不自由のないこの頃では昔ほど夜更けまで起きている孤独感は薄れてきているだろうが、草木も眠る丑三つ時である時間帯であることには変わりはない。寝ずの番をしているのか、天井に張り付いて座敷の様子をうかがっているのか、緊張状態にあるべき忍者が二時に眠くなると断定で言い切ったところがこの句の魅力だ。しとしと降り続く雨音が子守歌なのか、うとうとしてしまう忍者がなんだかおかしい。ユーモラスなイメージとともに心地よい音の響きとリズムも素敵だ。『しやりり』(2013)所収。(三宅やよい)




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