正月を祝う気分にもなれないが、食料の準備だけはしておかねば。(哲




2011ソスN12ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 20122011

 平らかな石に渡りの数記す

                           原 和子

在では見ることはないが、鉛筆や紙がじゅうぶんに普及されるまで、石板と石筆が筆記具だった時代があった。また高松塚古墳や古代エジプトの壁画を例に出すまでもなく、滑らかな石の面になにかを残そうとするのは人間の本能でもあるようだ。掲句の石とは、渡り鳥がたどり着く川辺の、水に洗われ、日に月にさらされた石であろう。そしてそこに記された数とは、おそらく単なる数字ではないように思う。例えば五ずつ数えるのに、日本では正の字を使うが、世界では星を描いたり、四本の棒に横線など、さまざまな数え方がある。これらには、最終的な数という総数ではなく、ものごとをひとつひとつ見つめている真摯な思いがある。渡り鳥という命をかけた生きもの数を記すのに、もっともふさわしいのは、紙の上に書かれた合計ではなく、石に刻まれた一のかたまりなのだろうと強く思うのである。『琴坂』(2011)所収。(土肥あき子)


December 19122011

 猟人の提げて兎の身は長し

                           望月 周

にも、この句の実感がある。子供の頃の田舎では、冬の農閑期になると、大人たちが銃を持ち猟犬を連れて山に入っていった。ターゲットは主として野兎で、夕暮れ近くになると獲物を提げた男らの姿が目撃され、だらりと垂れ下がった兎は、句にあるようにずいぶんと長く感じられたものだった。兎といえば、生きているときの丸っこいイメージが強いので、短躯と思いがちだけれど、実際は違うのである。肉はすぐに食べてしまうが、皮は干してから実用にする。納屋の壁などに長々と干されてある兎の姿は、懐かしい風物詩のように、いまでもときどき甦ってくる。そんな昔であれば、この句はちょっとした日常のなかの発見を詠んだことになるが、四十代の作者はいつごろ、どこでこんな兎を見かけたのだろうか。『俳コレ』(2011)所載。(清水哲男)


December 18122011

 みかん黄にふと人生はあたたかし

                           高田風人子

更とは思うものの、黄色というのは実に色らしい色だなと思うのです。見ていて決していやな感じはしないし、この句にあるように、あたたかなものを与えてもらったような気持ちになります。冬の夜に、ゆったりとコタツに入ってしまったら、ついミカンに手が伸びてしまうし、ひとつ食べたらきりもなく食べてしまいます。生きてゆくための食物とは違ったところで、精神のすみずみまで水分を補給してくれているような果物。あるいは、日々の諸事に目減りしてくる幸せを、いくばくかは回復してくれそうな、とてもありがたいものなのだなと、この句を読んで実感するわけです。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社)所載。(松下育男)




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