師走も、今日でちょうど真ん中ですね。そろそろ大掃除だな。(哲




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December 16122011

 数へ日やレジ打つときの唇うごく

                           小原啄葉

じ作者に「数へ日や茶筒のうへに燐寸箱」がある。そこに見えたものを見えたように。そこに在るものを在るように。これが「写生」という方法の核心であると僕などは理解している。しかしそこに別の要件を付加する考え方がある。いわく季題の本意や俳句的情趣。レジ打つときの唇うごくを詩ならしめているのは数へ日のはたらきがあるからだという人もいるだろう。年末の慌しいスーパーマーケットの様子が背景にあるから唇がうごくのだと。そうかなあ。それこそが師走のマーケットらしさを出すわざとらしい演出というふうにこの句を解釈することにならないか。一句の内容に関してその季題が唯一絶対か否かという見方で判断するとそういう解釈になる。唇がうごくのはレジを打つ個人の集中力や個人的な癖と大きくかかわっていると思えばこの数へ日は「絶対」ではなくなる。季語が絶対ではないと判断することがこの句の価値を貶めることになるのか。僕はそうは思わない。数へ日でも悪くはないが他の季節感でもいいかもしれないと思うのは、下句の瞬間の把握が人間の普遍的な在りように触れているからだ。後者の句も同じ。『小原啄葉季題別全句集』(2011)所収。(今井 聖)


December 15122011

 雪晴の額にもうひとつのまなこ

                           しなだしん

読んだ手塚治虫のマンガ『三つ目がとおる』を思い出した。普段はぼんやりして泣き虫、額に大きなばんそうこうを貼った主人公がばりっとばんそうこうをはがしてもう一つの目が出現するや、不思議な魔力を発揮する話だった。どんよりと雲が垂れこめて降り続いた雪がやむと青く晴れ渡った天気になる。真っ白な雪に覆われた景色のただ中にいると普段は見えないものが遠くまで見通せるような気持ちになる。目はもともと脳の一部が変質したものという説があるが、視覚的な景色をとらえる目とは異質なものを感知する目が額にあるのかもしれない。「もうひとつのまなこ」は雪晴の冷たく透き通った空気を額に感知しての比喩的表現だろうが、そんな日には前髪でかくされた眼が現れる非現実も違和感なく受け取れる。『隼の胸』(2011)所収。(三宅やよい)


December 14122011

 やがて入り来る四五人や年忘

                           久保田万太郎

まさに忘年会まっさかり。「忘年会」とすっぱり言ってしまうより、「年忘(としわすれ)」のほうが情緒がある。もちろん「望年」という言い方も流布している。今年のような年は、誰にとっても忘れようにも忘れられない年だったから、むしろ新しい年の到来に望みを託し、希望のもてる年であるように祈念するという意味で「望年」のほうがふさわしいように思われる。当方は昨夜、ある「大望年会」に参加して、とても楽しかった。暮はどちら様も何かと忙しい。けれども忘年会を通過しないと一年が終わらない、義理が立たない等々、仕事で定刻に遅れてしまっても、何とか駆けつけたいというのが人情。なかには二次会か三次会からでも参加という義理がたい(?)御仁も。「やあ、どうもどうも」とか何とか言いながら、三々五々駆けつけてくるのだろう。そのたびに酒席は揺れ、陽気な声があがるという寸法。そんなにぎやかな宴の模様が伝わってくる句である。『日本歳時記』には「年忘とて、父母兄弟親戚を饗することあり。これ一とせの間、事なく過ぎしことを祝ふ意なるべし」とある。本来はそうだったのだろうが、現在はその意味合いがだいぶ変わってきたことになる。万太郎の年忘の句は他に「拭きこみし柱の艶や年忘」がある。几董には「わかき人に交りてうれし年忘」という、今日に心境が通用する句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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