頑張ってきたアナログTVの色が変に。ついに我が家も地デジ化。(哲




2011ソスN12ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 14122011

 やがて入り来る四五人や年忘

                           久保田万太郎

まさに忘年会まっさかり。「忘年会」とすっぱり言ってしまうより、「年忘(としわすれ)」のほうが情緒がある。もちろん「望年」という言い方も流布している。今年のような年は、誰にとっても忘れようにも忘れられない年だったから、むしろ新しい年の到来に望みを託し、希望のもてる年であるように祈念するという意味で「望年」のほうがふさわしいように思われる。当方は昨夜、ある「大望年会」に参加して、とても楽しかった。暮はどちら様も何かと忙しい。けれども忘年会を通過しないと一年が終わらない、義理が立たない等々、仕事で定刻に遅れてしまっても、何とか駆けつけたいというのが人情。なかには二次会か三次会からでも参加という義理がたい(?)御仁も。「やあ、どうもどうも」とか何とか言いながら、三々五々駆けつけてくるのだろう。そのたびに酒席は揺れ、陽気な声があがるという寸法。そんなにぎやかな宴の模様が伝わってくる句である。『日本歳時記』には「年忘とて、父母兄弟親戚を饗することあり。これ一とせの間、事なく過ぎしことを祝ふ意なるべし」とある。本来はそうだったのだろうが、現在はその意味合いがだいぶ変わってきたことになる。万太郎の年忘の句は他に「拭きこみし柱の艶や年忘」がある。几董には「わかき人に交りてうれし年忘」という、今日に心境が通用する句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 13122011

 死ににゆく木偶の髪結ふ雪催

                           渡 たみ

偶とは、人形浄瑠璃で使用する木彫りの操り人形のことである。動く人形を見世物としたのは平安時代より見られ、時代とともに目や口、五指が動くからくりによって、より人間に近いなめらかな動きを可能にした。農村各地まであまねく小屋が隆盛し、江戸中期には歌舞伎を圧倒するほどの人気を得たという。以前見た木偶人形は20条以上の糸に操ることよって人間の動作を再現していた。それは人間の骨や筋肉を代行しているかのような緻密さである。掲句では、今は単なる人形の頭であるものが、舞台に出れば嘆き悲しむ人そのものとなって、死ぬ運命が待っている。あれほど繊細な動きをするものに魂が入らないわけがない。あまりに人間らしく作られた人形たちが、なぜか不憫に思えて仕方がないのだ。『安宅』(2008)所収。(土肥あき子)


December 12122011

 老いはいや死ぬこともいや年忘れ

                           富安風生

生、七十歳の作。まるで駄々っ子みたいな句だが、七十三歳の私には、微笑とともに受け止められる。老いは、身体から来る。加齢とともに、立ち居振る舞いに支障が出てくる。「こんなはずではなかったが……」という失敗が多くなり、そのたびに「我老いたり」の実感が胸を打つ。先日の私の失敗は、居眠りをしているうちに椅子から転げ落ちてしまったことだ。一瞬、何が我が身に起きたのかがわからなかった。こんなことは、むろん若いころには起きなかった。つくづく、老いはいやだなと思い、老いを呪いたくもなったが、致し方ないと思うしかなかった。かといって、こうした失敗は死んだほうがましという意識には、なかなかつながらない。まだ軽度なのだと、自分に言い聞かせるだけだ。しかし、老人にとって確実なのは、今日よりも明日のほうが失敗する率は高まるということだ。加齢による体験が、そのことを指し示している。おそらく死ぬまで、こうしたことが繰り返され、まだまだ軽度の失敗なのだという意識のなかで、最後の時を迎えるのだろう。私の「年忘れ」もまた、作者と同じように「年(齢)忘れ」に近くなってきたようだ。ちなみに風生は、このあと二十年以上も生きて九十三歳で没している。『古稀春風』(1957)所収。(清水哲男)




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