いわゆる「特番」の季節。多くが「特別な手抜き番組」である。(哲




2011ソスN12ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 11122011

 忘年会脱けて古本漁りけり

                           阿片瓢郎

ける、ではなくてわざわざ「脱ける」にしたのは何か意図があったのでしょうか。にぎやかに酒を酌み交わしている人たちの間を、足をふんづけながら通って扉までやっとたどり着いた、そんな動作の様子を含めたかったのでしょう。楽しいはずの酒の席を途中で帰る。急いで帰らなければならない用事があるわけでもなく、脱けた理由は、ただ人と一緒にいるのが嫌だったからのようです。そういう気持ちの時って、確かにあります。でも、普通は最後まで我慢して付き合い、せめて二次会は断って帰るものです。しかし、この句の人は、どうにも我慢が出来なくなったのです。やっと一人になって、いつもの時間を取り戻し、人心地がつきました。今年一年のさまざまなことを思い出しながら、ぼんやりと好きな古本の表紙を眺めていることも、りっぱな忘年と言えるのかもしれません。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社)所載。(松下育男)


December 10122011

 北風や電飾の鹿向き合うて

                           丹治美佐子

時記を読み直して、冬の初めに吹く北風が凩なのだとあらためて確認。北風は、北から吹くと言っているのでまさに鋭い寒風なのだが、凩は、木枯、と書くとなお、一斉に散る木の葉とむき出しになった枝が見え、より心情的な気がする。この時季あちこちで始まるイルミネーションは、年の瀬を感じさせる現代の風物のひとつだろう。実を言えば個人的には、この動物の電飾がどうもあまり好きになれない。並木道や、いわゆるライトアップも、どこか違和感を感じてしまうのだが、掲出句の場合は、作者の確かな視線に惹かれた。昼間はさびしい針金が、夜になると輝く鹿になってお互いを見つめ合う。北風、というストレートな語が、そんな電飾の鹿の体を吹き抜けて、真冬の街を駆けめぐってゆくようだ。俳誌「秋麗」(2011年10月号)所載。(今井肖子)


December 09122011

 坑底枯野めきポンプすっとんギーすっとんギー

                           野宮猛夫

分が目にしたことのない風景が見えてくるのは作品の力だ。見たこともない炭鉱の深い坑の底の枯野のような風景。灯に照らされた茫漠たるさまが浮ぶ。そこにあるポンプはおそらく地上より酸素を送るポンプだろうと想像できる。それ以外に想像できない。命をつなぐポンプだ。どうしてすっとんがひらがなで書かれ、ギーがかたかなで書かれているのか。その意図もすぐわかる。音の質が違うのだ。すっとんとギーの音質の違いをどうしても書かねば気がすまないからこんな工夫が生まれる。どうしてその違いを書かねばならないのか。それは表現を真実に近づけたいからだ。書くってことは所詮フィクションさ、とハナから割り切るひとはすっとんとギーを分けられない。俳句は見たものを写すことではなくて言葉で創っていくものだと思っているひともすっとんとギーを分ける意図と執念は理解できない。真実に近づこうとすれば表現が真実に近づくわけでもない。しかしそこに確かな真実があって、俳句という器の中でそれにどうにかして近づこうとする作者の態度が伝わるとき読むものを打つのだ。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます