高齢化が進むなか貧困が女性に偏ってきていると。政治の責任だ。(哲




2011ソスN12ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 10122011

 北風や電飾の鹿向き合うて

                           丹治美佐子

時記を読み直して、冬の初めに吹く北風が凩なのだとあらためて確認。北風は、北から吹くと言っているのでまさに鋭い寒風なのだが、凩は、木枯、と書くとなお、一斉に散る木の葉とむき出しになった枝が見え、より心情的な気がする。この時季あちこちで始まるイルミネーションは、年の瀬を感じさせる現代の風物のひとつだろう。実を言えば個人的には、この動物の電飾がどうもあまり好きになれない。並木道や、いわゆるライトアップも、どこか違和感を感じてしまうのだが、掲出句の場合は、作者の確かな視線に惹かれた。昼間はさびしい針金が、夜になると輝く鹿になってお互いを見つめ合う。北風、というストレートな語が、そんな電飾の鹿の体を吹き抜けて、真冬の街を駆けめぐってゆくようだ。俳誌「秋麗」(2011年10月号)所載。(今井肖子)


December 09122011

 坑底枯野めきポンプすっとんギーすっとんギー

                           野宮猛夫

分が目にしたことのない風景が見えてくるのは作品の力だ。見たこともない炭鉱の深い坑の底の枯野のような風景。灯に照らされた茫漠たるさまが浮ぶ。そこにあるポンプはおそらく地上より酸素を送るポンプだろうと想像できる。それ以外に想像できない。命をつなぐポンプだ。どうしてすっとんがひらがなで書かれ、ギーがかたかなで書かれているのか。その意図もすぐわかる。音の質が違うのだ。すっとんとギーの音質の違いをどうしても書かねば気がすまないからこんな工夫が生まれる。どうしてその違いを書かねばならないのか。それは表現を真実に近づけたいからだ。書くってことは所詮フィクションさ、とハナから割り切るひとはすっとんとギーを分けられない。俳句は見たものを写すことではなくて言葉で創っていくものだと思っているひともすっとんとギーを分ける意図と執念は理解できない。真実に近づこうとすれば表現が真実に近づくわけでもない。しかしそこに確かな真実があって、俳句という器の中でそれにどうにかして近づこうとする作者の態度が伝わるとき読むものを打つのだ。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


December 08122011

 銀河系柚子にはもはやもどれまい

                           糸 大八

数の星をまたたかせる冬の夜空に柚子の実がランプのように点っている。この句、銀河系(が)柚子にはもはや戻れないと、読んだ。銀河系は常に生成と消滅を繰り返し、一日とて同じ姿はない、もともとは柚子であったのに銀河系になってしまった。ということだろうか。または銀河系柚子の存在そのものが銀河系から切り離されて別物になってしまったとも読める。その場合は銀河系柚子から変質してしまった物に自己投影していると考えられる。銀河系のうち一番近いと思われる火星ですら行くだけで一年近くかかるらしい。日本の隅っこに生息する私には計り知れない時間と空間が広がる宇宙の大きさであるが、厖大な銀河系と掌にのる柚子との関係づけが面白い。柚子湯、ゆずみそ、冬の生活に欠かせない柚子。その明るい黄色とすっぱさ、凝縮された香気が銀河系に広がる。さもありなんと思える。『白桃』(2011)所収。(三宅やよい)




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