歳末気分にならないのは、今年は年賀状を作らないこともあるな。(哲




2011ソスN12ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 09122011

 坑底枯野めきポンプすっとんギーすっとんギー

                           野宮猛夫

分が目にしたことのない風景が見えてくるのは作品の力だ。見たこともない炭鉱の深い坑の底の枯野のような風景。灯に照らされた茫漠たるさまが浮ぶ。そこにあるポンプはおそらく地上より酸素を送るポンプだろうと想像できる。それ以外に想像できない。命をつなぐポンプだ。どうしてすっとんがひらがなで書かれ、ギーがかたかなで書かれているのか。その意図もすぐわかる。音の質が違うのだ。すっとんとギーの音質の違いをどうしても書かねば気がすまないからこんな工夫が生まれる。どうしてその違いを書かねばならないのか。それは表現を真実に近づけたいからだ。書くってことは所詮フィクションさ、とハナから割り切るひとはすっとんとギーを分けられない。俳句は見たものを写すことではなくて言葉で創っていくものだと思っているひともすっとんとギーを分ける意図と執念は理解できない。真実に近づこうとすれば表現が真実に近づくわけでもない。しかしそこに確かな真実があって、俳句という器の中でそれにどうにかして近づこうとする作者の態度が伝わるとき読むものを打つのだ。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


December 08122011

 銀河系柚子にはもはやもどれまい

                           糸 大八

数の星をまたたかせる冬の夜空に柚子の実がランプのように点っている。この句、銀河系(が)柚子にはもはや戻れないと、読んだ。銀河系は常に生成と消滅を繰り返し、一日とて同じ姿はない、もともとは柚子であったのに銀河系になってしまった。ということだろうか。または銀河系柚子の存在そのものが銀河系から切り離されて別物になってしまったとも読める。その場合は銀河系柚子から変質してしまった物に自己投影していると考えられる。銀河系のうち一番近いと思われる火星ですら行くだけで一年近くかかるらしい。日本の隅っこに生息する私には計り知れない時間と空間が広がる宇宙の大きさであるが、厖大な銀河系と掌にのる柚子との関係づけが面白い。柚子湯、ゆずみそ、冬の生活に欠かせない柚子。その明るい黄色とすっぱさ、凝縮された香気が銀河系に広がる。さもありなんと思える。『白桃』(2011)所収。(三宅やよい)


December 07122011

 鍋もっておでん屋までの月明り

                           渥美 清

をもって近所へ豆腐を買いに行ったり、おでんを買いに走ったり――そんな光景は今でも見られるのだろうか? 「おでん屋」といっても、ここでは店をかまえているおでん屋ではなくて、屋台のおでん屋ではないだろうか。夕食のおかずを作る時間がなくて、熱いおでんを買いに行くのだろう。酒の肴にするおでんを買ってくる、ということなのかもしれない。下町あたりだろう。月だけが皓々と照っていて、外は一段と寒い。映画「男はつらいよ」にこんなシーンはありそうだが、記憶にない。おでん屋の屋台と手にもつ鍋が月明りのなかで、そこだけポッと暖かく照らし出されているような気がする。落語の「替り目」は、深夜つまみがないから、酔っぱらって帰ってきた亭主のために、女房がおでん屋へ走るという噺だ。掲句について、森英介さんは「渥美清さんの生活の反映のような気がしますね」とコメントしている。そう、渥美清の生活実感だったかもしれない。「名月に雨戸とざして凶作の村」なんて句もある。森英介『風天 渥美清のうた』(2008)所載。(八木忠栄)




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