2011N12句

December 01122011

 冬を明るく弁当の蓋開けて

                           興梠 隆

弁でも家で作ってもらったお弁当でも、何が入っているんだろう、期待を持って蓋を開ける瞬間は楽しい。私事になるが、むかし家の事情で、おそまつな弁当しか持っていけない時期があり、友達の前で弁当の蓋をとるのが嫌だった。友人たちは母親の心づくしの彩り鮮やかなおかずに加え小さなタッパ―に食後のフル―ツまで持参しているのに、私のお弁当ときたら目刺だの煮しめた大根だの佃煮だの、やたら茶色っぽいものだったから。と、言ってもそんな弁当格差は人と比べるから出てくるわけで、地味なお弁当であってもお昼休みに「さぁ、食べよう」と、蓋を開ける心のはずみは失われることはない。掲句では弁当を開けるささやかな行為と喜びが「冬を明るく」と空間的広がりに結び付いてゆくのが素晴らしい。倒置の効果が十分に生かされた一句である。『背番号』(2011)所収。(三宅やよい)


December 02122011

 新大久保の大根キムチ色の空

                           夏井いつき

浜に住んでいて昔ながらの繁華街伊勢佐木町はかなり東南アジア系の店が増えていることを実感する。最初はおっかなびっくりでなんとなく敬遠していた異国料理の店もそのうちみんな抵抗なく通うようになる。新大久保もそうだ。風俗系の店が多い印象だったのが、今や人気のある韓国料理の店に行列が出来ている。大根キムチの色の空は夕方かな。白い雲に夕焼けが薄く滲んでいる。この大根が季語かどうかなどという論議は無用。そもそも日本的なるものが無国籍のはちゃめちゃな面白い情緒に姿を変える。そこでも俳句はちゃんと生きていける。そういう主張とエネルギーに満ちた句だ。俳句マガジン「いつき組」(2011年12月号)所載。(今井 聖)


December 03122011

 押入をからつぽにして布團干す

                           草野駝王

れを書いている今日は気持ちのよい冬晴れ、この句が生まれた日もきっと今日のような青空が広がっていたことだろう。布団を運んで並べ叩き整え、さてあとはよろしくお日さま、と思う時の満足感が伝わってくる。押し入れは、布団を干したから今はからっぽになったのだが、からっぽにして、と言われるとなお、存分に日を浴びている布団が幸せそうに目に浮かぶ。掲出句は『現代俳句全集』(1953・創元社)という古い文庫本にあった。作者は明治三十四年生まれ、そう知ると、からつぽにして、は新しかったのかもしれないなと思う。ホトトギス作家編(I)として130人ほどの作品が一人概ね30句、淡々と太い句が並んでいる。(今井肖子)


December 04122011

 初雪を見てから顔を洗ひけり

                           越智越人

浜とか東京とか、関東平野に長く住んでいると、初雪というものに対する感慨はそれほどありません。朝のニュースで、「昨日は東京にも初雪が降りました」と聴いても、ああそうかと思うだけです。というのも、目を細めなければ見えないほどのかすかな降雪が、短時間あるだけだからです。でも、積雪を経験する地域の人にとっては、「初雪」というのは特別な意味を持っているのでしょう。雪の中の生活への、境目としての重要な意味があるわけです。江戸期の俳人越山が見た初雪はどちらだったのでしょう。今の生活と違って、窓のない部屋の中で洗面を済ましたのではなく、外にむき出しの縁側を通り、顔を洗ったのではないでしょうか。季節の境目としての重い「初雪」を、日常の動作の中で軽くむかえる事。そのギャップの面白さをこの句から、読み取れるのではないでしょうか。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


December 05122011

 すぐ驚く老人が好き冬青空

                           大部哲也

持ちの良い句である。意表を突かれた。言われてみれば、なるほどと納得できる。こういう価値基準と言おうか、人の見方もあったのだ。むろん「すぐに驚く」とは一種の比喩でもあって、その他何事につけても反応がビビットであるという意味あいが込められている。見回してみると、数は少ないが、こういう老人はたしかに存在する。いつまでも子供のような好奇心を持ちつづけているからだろうが、好奇心の持続には、何か特別な秘訣でもあるのだろうか。私などはめったに驚かなくなってきているから、句の老人にちょっとジェラシーを感じてしまった。そして「冬青空」との取り合わせには、けれん味が無くて主題にふさわしい季語だと、好感が持てる。読者から言えば、こういう発想が素直に出てくる作者をもまた「好きだなあ」ということになりそうだ。『遠雷』(2011)所収。(清水哲男)


December 06122011

 骨色の石をあらはに水涸るる

                           檜山哲彦

々と流れる水に住む魚や、両岸の青々とした草木、そこに集う動物たち。生命の息吹に満ちた季節の川は、生きものを育む清らかな器であり、自然のなかの景観のひとつであった。それが冬となって、水量が少なくなり、水面から乾いた頭を覗かせている石を作者が骨色であることを発見したとき、川そのものにひと筋の命が宿る。先日「渓相(けいそう)」という言葉を知った。人に人相があるように川や沢にも渓相があるのだという。冬の渓相はさながら痩身の険しさだろう。ところどころに、身のうちの骨をちらつかせながら、川の旅は海へと続く。春になり、雪解けの水があふれたとき、骨色の石をふところ深く沈め、川は喜び勇んで身をくねらせる。そしてふたたび、清らかな器となって生きものを育むのだ。「りいの」(2011年2月号)所載。(土肥あき子)


December 07122011

 鍋もっておでん屋までの月明り

                           渥美 清

をもって近所へ豆腐を買いに行ったり、おでんを買いに走ったり――そんな光景は今でも見られるのだろうか? 「おでん屋」といっても、ここでは店をかまえているおでん屋ではなくて、屋台のおでん屋ではないだろうか。夕食のおかずを作る時間がなくて、熱いおでんを買いに行くのだろう。酒の肴にするおでんを買ってくる、ということなのかもしれない。下町あたりだろう。月だけが皓々と照っていて、外は一段と寒い。映画「男はつらいよ」にこんなシーンはありそうだが、記憶にない。おでん屋の屋台と手にもつ鍋が月明りのなかで、そこだけポッと暖かく照らし出されているような気がする。落語の「替り目」は、深夜つまみがないから、酔っぱらって帰ってきた亭主のために、女房がおでん屋へ走るという噺だ。掲句について、森英介さんは「渥美清さんの生活の反映のような気がしますね」とコメントしている。そう、渥美清の生活実感だったかもしれない。「名月に雨戸とざして凶作の村」なんて句もある。森英介『風天 渥美清のうた』(2008)所載。(八木忠栄)


December 08122011

 銀河系柚子にはもはやもどれまい

                           糸 大八

数の星をまたたかせる冬の夜空に柚子の実がランプのように点っている。この句、銀河系(が)柚子にはもはや戻れないと、読んだ。銀河系は常に生成と消滅を繰り返し、一日とて同じ姿はない、もともとは柚子であったのに銀河系になってしまった。ということだろうか。または銀河系柚子の存在そのものが銀河系から切り離されて別物になってしまったとも読める。その場合は銀河系柚子から変質してしまった物に自己投影していると考えられる。銀河系のうち一番近いと思われる火星ですら行くだけで一年近くかかるらしい。日本の隅っこに生息する私には計り知れない時間と空間が広がる宇宙の大きさであるが、厖大な銀河系と掌にのる柚子との関係づけが面白い。柚子湯、ゆずみそ、冬の生活に欠かせない柚子。その明るい黄色とすっぱさ、凝縮された香気が銀河系に広がる。さもありなんと思える。『白桃』(2011)所収。(三宅やよい)


December 09122011

 坑底枯野めきポンプすっとんギーすっとんギー

                           野宮猛夫

分が目にしたことのない風景が見えてくるのは作品の力だ。見たこともない炭鉱の深い坑の底の枯野のような風景。灯に照らされた茫漠たるさまが浮ぶ。そこにあるポンプはおそらく地上より酸素を送るポンプだろうと想像できる。それ以外に想像できない。命をつなぐポンプだ。どうしてすっとんがひらがなで書かれ、ギーがかたかなで書かれているのか。その意図もすぐわかる。音の質が違うのだ。すっとんとギーの音質の違いをどうしても書かねば気がすまないからこんな工夫が生まれる。どうしてその違いを書かねばならないのか。それは表現を真実に近づけたいからだ。書くってことは所詮フィクションさ、とハナから割り切るひとはすっとんとギーを分けられない。俳句は見たものを写すことではなくて言葉で創っていくものだと思っているひともすっとんとギーを分ける意図と執念は理解できない。真実に近づこうとすれば表現が真実に近づくわけでもない。しかしそこに確かな真実があって、俳句という器の中でそれにどうにかして近づこうとする作者の態度が伝わるとき読むものを打つのだ。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


December 10122011

 北風や電飾の鹿向き合うて

                           丹治美佐子

時記を読み直して、冬の初めに吹く北風が凩なのだとあらためて確認。北風は、北から吹くと言っているのでまさに鋭い寒風なのだが、凩は、木枯、と書くとなお、一斉に散る木の葉とむき出しになった枝が見え、より心情的な気がする。この時季あちこちで始まるイルミネーションは、年の瀬を感じさせる現代の風物のひとつだろう。実を言えば個人的には、この動物の電飾がどうもあまり好きになれない。並木道や、いわゆるライトアップも、どこか違和感を感じてしまうのだが、掲出句の場合は、作者の確かな視線に惹かれた。昼間はさびしい針金が、夜になると輝く鹿になってお互いを見つめ合う。北風、というストレートな語が、そんな電飾の鹿の体を吹き抜けて、真冬の街を駆けめぐってゆくようだ。俳誌「秋麗」(2011年10月号)所載。(今井肖子)


December 11122011

 忘年会脱けて古本漁りけり

                           阿片瓢郎

ける、ではなくてわざわざ「脱ける」にしたのは何か意図があったのでしょうか。にぎやかに酒を酌み交わしている人たちの間を、足をふんづけながら通って扉までやっとたどり着いた、そんな動作の様子を含めたかったのでしょう。楽しいはずの酒の席を途中で帰る。急いで帰らなければならない用事があるわけでもなく、脱けた理由は、ただ人と一緒にいるのが嫌だったからのようです。そういう気持ちの時って、確かにあります。でも、普通は最後まで我慢して付き合い、せめて二次会は断って帰るものです。しかし、この句の人は、どうにも我慢が出来なくなったのです。やっと一人になって、いつもの時間を取り戻し、人心地がつきました。今年一年のさまざまなことを思い出しながら、ぼんやりと好きな古本の表紙を眺めていることも、りっぱな忘年と言えるのかもしれません。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社)所載。(松下育男)


December 12122011

 老いはいや死ぬこともいや年忘れ

                           富安風生

生、七十歳の作。まるで駄々っ子みたいな句だが、七十三歳の私には、微笑とともに受け止められる。老いは、身体から来る。加齢とともに、立ち居振る舞いに支障が出てくる。「こんなはずではなかったが……」という失敗が多くなり、そのたびに「我老いたり」の実感が胸を打つ。先日の私の失敗は、居眠りをしているうちに椅子から転げ落ちてしまったことだ。一瞬、何が我が身に起きたのかがわからなかった。こんなことは、むろん若いころには起きなかった。つくづく、老いはいやだなと思い、老いを呪いたくもなったが、致し方ないと思うしかなかった。かといって、こうした失敗は死んだほうがましという意識には、なかなかつながらない。まだ軽度なのだと、自分に言い聞かせるだけだ。しかし、老人にとって確実なのは、今日よりも明日のほうが失敗する率は高まるということだ。加齢による体験が、そのことを指し示している。おそらく死ぬまで、こうしたことが繰り返され、まだまだ軽度の失敗なのだという意識のなかで、最後の時を迎えるのだろう。私の「年忘れ」もまた、作者と同じように「年(齢)忘れ」に近くなってきたようだ。ちなみに風生は、このあと二十年以上も生きて九十三歳で没している。『古稀春風』(1957)所収。(清水哲男)


December 13122011

 死ににゆく木偶の髪結ふ雪催

                           渡 たみ

偶とは、人形浄瑠璃で使用する木彫りの操り人形のことである。動く人形を見世物としたのは平安時代より見られ、時代とともに目や口、五指が動くからくりによって、より人間に近いなめらかな動きを可能にした。農村各地まであまねく小屋が隆盛し、江戸中期には歌舞伎を圧倒するほどの人気を得たという。以前見た木偶人形は20条以上の糸に操ることよって人間の動作を再現していた。それは人間の骨や筋肉を代行しているかのような緻密さである。掲句では、今は単なる人形の頭であるものが、舞台に出れば嘆き悲しむ人そのものとなって、死ぬ運命が待っている。あれほど繊細な動きをするものに魂が入らないわけがない。あまりに人間らしく作られた人形たちが、なぜか不憫に思えて仕方がないのだ。『安宅』(2008)所収。(土肥あき子)


December 14122011

 やがて入り来る四五人や年忘

                           久保田万太郎

まさに忘年会まっさかり。「忘年会」とすっぱり言ってしまうより、「年忘(としわすれ)」のほうが情緒がある。もちろん「望年」という言い方も流布している。今年のような年は、誰にとっても忘れようにも忘れられない年だったから、むしろ新しい年の到来に望みを託し、希望のもてる年であるように祈念するという意味で「望年」のほうがふさわしいように思われる。当方は昨夜、ある「大望年会」に参加して、とても楽しかった。暮はどちら様も何かと忙しい。けれども忘年会を通過しないと一年が終わらない、義理が立たない等々、仕事で定刻に遅れてしまっても、何とか駆けつけたいというのが人情。なかには二次会か三次会からでも参加という義理がたい(?)御仁も。「やあ、どうもどうも」とか何とか言いながら、三々五々駆けつけてくるのだろう。そのたびに酒席は揺れ、陽気な声があがるという寸法。そんなにぎやかな宴の模様が伝わってくる句である。『日本歳時記』には「年忘とて、父母兄弟親戚を饗することあり。これ一とせの間、事なく過ぎしことを祝ふ意なるべし」とある。本来はそうだったのだろうが、現在はその意味合いがだいぶ変わってきたことになる。万太郎の年忘の句は他に「拭きこみし柱の艶や年忘」がある。几董には「わかき人に交りてうれし年忘」という、今日に心境が通用する句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 15122011

 雪晴の額にもうひとつのまなこ

                           しなだしん

読んだ手塚治虫のマンガ『三つ目がとおる』を思い出した。普段はぼんやりして泣き虫、額に大きなばんそうこうを貼った主人公がばりっとばんそうこうをはがしてもう一つの目が出現するや、不思議な魔力を発揮する話だった。どんよりと雲が垂れこめて降り続いた雪がやむと青く晴れ渡った天気になる。真っ白な雪に覆われた景色のただ中にいると普段は見えないものが遠くまで見通せるような気持ちになる。目はもともと脳の一部が変質したものという説があるが、視覚的な景色をとらえる目とは異質なものを感知する目が額にあるのかもしれない。「もうひとつのまなこ」は雪晴の冷たく透き通った空気を額に感知しての比喩的表現だろうが、そんな日には前髪でかくされた眼が現れる非現実も違和感なく受け取れる。『隼の胸』(2011)所収。(三宅やよい)


December 16122011

 数へ日やレジ打つときの唇うごく

                           小原啄葉

じ作者に「数へ日や茶筒のうへに燐寸箱」がある。そこに見えたものを見えたように。そこに在るものを在るように。これが「写生」という方法の核心であると僕などは理解している。しかしそこに別の要件を付加する考え方がある。いわく季題の本意や俳句的情趣。レジ打つときの唇うごくを詩ならしめているのは数へ日のはたらきがあるからだという人もいるだろう。年末の慌しいスーパーマーケットの様子が背景にあるから唇がうごくのだと。そうかなあ。それこそが師走のマーケットらしさを出すわざとらしい演出というふうにこの句を解釈することにならないか。一句の内容に関してその季題が唯一絶対か否かという見方で判断するとそういう解釈になる。唇がうごくのはレジを打つ個人の集中力や個人的な癖と大きくかかわっていると思えばこの数へ日は「絶対」ではなくなる。季語が絶対ではないと判断することがこの句の価値を貶めることになるのか。僕はそうは思わない。数へ日でも悪くはないが他の季節感でもいいかもしれないと思うのは、下句の瞬間の把握が人間の普遍的な在りように触れているからだ。後者の句も同じ。『小原啄葉季題別全句集』(2011)所収。(今井 聖)


December 17122011

 短日のどの折鶴もよく燃える

                           西原天気

れにしてもよく燃えるな、という感じだろうか。千羽鶴を火にくべる背景はいずれにしても哀しいものと思われるが、目の前の火の勢いという現実に、一瞬気をとられたような印象を持った。燃えさかる炎をじっと見ていると、心が昂ぶることも、逆に心が鎮まってくることもあるように思う。そんな作者に、短日の夕日があかあかとさしている。あと一週間足らずで冬至、日の短さをいよいよ実感する頃合となり、なにかと気ぜわしくもある。冬の日差しは遠くて弱いが、日の短さも冬至が底、と思えば少し励まされるような気もする。『けむり』(2011)所収。(今井肖子)


December 18122011

 みかん黄にふと人生はあたたかし

                           高田風人子

更とは思うものの、黄色というのは実に色らしい色だなと思うのです。見ていて決していやな感じはしないし、この句にあるように、あたたかなものを与えてもらったような気持ちになります。冬の夜に、ゆったりとコタツに入ってしまったら、ついミカンに手が伸びてしまうし、ひとつ食べたらきりもなく食べてしまいます。生きてゆくための食物とは違ったところで、精神のすみずみまで水分を補給してくれているような果物。あるいは、日々の諸事に目減りしてくる幸せを、いくばくかは回復してくれそうな、とてもありがたいものなのだなと、この句を読んで実感するわけです。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社)所載。(松下育男)


December 19122011

 猟人の提げて兎の身は長し

                           望月 周

にも、この句の実感がある。子供の頃の田舎では、冬の農閑期になると、大人たちが銃を持ち猟犬を連れて山に入っていった。ターゲットは主として野兎で、夕暮れ近くになると獲物を提げた男らの姿が目撃され、だらりと垂れ下がった兎は、句にあるようにずいぶんと長く感じられたものだった。兎といえば、生きているときの丸っこいイメージが強いので、短躯と思いがちだけれど、実際は違うのである。肉はすぐに食べてしまうが、皮は干してから実用にする。納屋の壁などに長々と干されてある兎の姿は、懐かしい風物詩のように、いまでもときどき甦ってくる。そんな昔であれば、この句はちょっとした日常のなかの発見を詠んだことになるが、四十代の作者はいつごろ、どこでこんな兎を見かけたのだろうか。『俳コレ』(2011)所載。(清水哲男)


December 20122011

 平らかな石に渡りの数記す

                           原 和子

在では見ることはないが、鉛筆や紙がじゅうぶんに普及されるまで、石板と石筆が筆記具だった時代があった。また高松塚古墳や古代エジプトの壁画を例に出すまでもなく、滑らかな石の面になにかを残そうとするのは人間の本能でもあるようだ。掲句の石とは、渡り鳥がたどり着く川辺の、水に洗われ、日に月にさらされた石であろう。そしてそこに記された数とは、おそらく単なる数字ではないように思う。例えば五ずつ数えるのに、日本では正の字を使うが、世界では星を描いたり、四本の棒に横線など、さまざまな数え方がある。これらには、最終的な数という総数ではなく、ものごとをひとつひとつ見つめている真摯な思いがある。渡り鳥という命をかけた生きもの数を記すのに、もっともふさわしいのは、紙の上に書かれた合計ではなく、石に刻まれた一のかたまりなのだろうと強く思うのである。『琴坂』(2011)所収。(土肥あき子)


December 21122011

 眼薬さしてねむる大雪になろう

                           小林銀汀

は音もなく不気味な静けさのなかで、もさもさと降り積もり、一夜にして大雪になることがある。いつもと何かしらちがう静けさのなかにいて、雪国の人にはそんな予感がする冬の夜があるのだ。「嵐の前の静けさ」ではないけれど、毎夜寝る前にさしている眼薬を、今夜もいつもと変わらずさすという何気ない日課。なぜか降る雪のごとく、冷たく澄んだ眼薬がまなこにしたたり広がって行くような錯覚も読みとれる。一段と寒さが厳しく感じられる夜なのだろう。もちろん「ねむる」で切れる。銀汀(ぎんてい)は越後長岡の写真師だが、俳句も作って井泉水の「層雲」に拠ったこともある。掲句は心酔していた山頭火調が感じられる。山頭火は昭和十一年五月から六月にかけて、一茶から良寛へとめぐる旅の途中、銀汀宅に三日間滞在したという。よく知られている山頭火の旅装束の写真は、長岡に滞在中に銀汀が撮影したものであることは、知る人ぞ知る。他に「星のある月のある雪を歩いてゐる」がある。『荒海』(1971)所収。(八木忠栄)


December 22122011

 夫婦とも違ふ鮟鱇鍋囲む

                           山崎十生

鱇鍋で有名な茨城も今回は震災の影響もあってもう一つ客の入りが悪いようだ。鮟鱇の吊るし切りなど冬の風物詩だろうが、濃厚な味の鍋もこの季節ならではのものだ。「夫婦とも違ふ」と切って夫婦ではない男女二人が親密に鮟鱇鍋をつつき合っていると読むのか、夫婦のそれぞれが違う場所で、別の人と「違ふ鮟鱇鍋」に向き合っているのか読み方が分かれるところだろう。後者の場合、共働き夫婦それぞれの忘年会とも考えられるが、この句集の題名『恋句』を考えると妻、夫それぞれに恋人がいて違う鮟鱇鍋を囲んでいると捉えたい。いずれにしても鮟鱇鍋と男女の関係が怪しい雰囲気を醸し出している。もう若くはなく或る程度人生の荒波をかいくぐった二人だろう、とそう思わせるのは身の部分だけでなく、皮も胆も食べつくすこの鍋の性格があるからだろうか。『恋句』(2011)所収。(三宅やよい)


December 23122011

 いろいろの死に方思ふ冬木中

                           福田甲子雄

年大切な人を亡くした。20歳も上の人生の先達だ。彼とはよく「死」についての話をした。「父母が死ぬとこんどは自分が死顔を見られる番だという気になる」「何かを遺すなんていうけど死んでゆく側には何の関係もない」「平知盛は見るべきほどのことは見つなんて言ったけど俺には無縁の心境だな。できれば50年後の世界を見てみたい」そして彼は死んで棺に入り僕らに死顔を見せた。交通事故や病気はいつも意識して用心していればある程度避けることが出来る。死だけはそうはいかない。意識していてもしなくても必ずやってくる。死ぬんだったらどんな死に方がいいかなんて話は誰でも一度や二度はしたことがあるだろう。そういう意味ではこの句は深刻な句ではない。日常のふとした思いに過ぎない。そしてこう書いた作者もすでに故人になられたということがどこか不思議な感じがする。うまく言えないけど。『白根山麓』(1982)所収。(今井 聖)


December 24122011

 初雪やリボン逃げ出すかたちして

                           野口る理

が来そうな空の色や空気の匂い、さっきまでとは違う底冷え感には、なんとなくわくわくさせられる。初雪が最初で最後の雪、ということも多い東京にいるからそんな悠長なことを言っていられるのかもしれないが、この句の初雪も、そんな都会の初雪だろう。あ、雪、と見上げているうちに、街のクリスマスプレゼントを包んでいるリボンがするするとほどけて空へ空へ。舞い落ちる淡く白い雪と舞い上がる色とりどりのリボン、たくさんの人がただそれを見ている映像が浮かぶ、渋谷のスクランブル交差点あたり。いつでも逃げだせるリボン、明日は丁寧にほどかれしまわれて、次のチャンスを待つことになるのだろうか。『俳コレ』(2011)所載。(今井肖子)


December 25122011

 クリスマス昔煙突多かりし

                           島村 正

の句を読んで、「ああそうか、サンタクロースは煙突から入ってくるのだったな」と、思い出します。クリスマスそのものを描こうとしているわけでもなく、煙突について書こうとしているわけでもありません。ただ単に、二つの単語を置くことによって、サンタクロースの太った姿をまざまざと思い起こさせてくれます。書きたいことに焦点を当て過ぎない。表現とは決して、これ見よがしであってはいけないのだと思うわけです。ところで、12月25日とは、当たり前かもしれませんが、テレビやラジオからクリスマスソングが流れるその年最後の日なのだなと、思うのです。山下達郎もWHAM!も、また一年間大切に、しまわれてしまう日であるわけです。『角川俳句大歳時記 冬』(角川書店・2006)所載。(松下育男)


December 26122011

 行く年や一編集者懐かしむ

                           榊原風伯

家や評論家などの著者が、かつての担当編集者を懐かしんでいるともとれるが、この場合はそうではない。作者は私の河出書房「文芸」編集部時代の同僚だったし、河出退職後も編集者を勤めた人だから、「一編集者」とは作者自身のことだ。どんな仕事でもそうだろうが、月刊誌編集者の年末も多忙である。というよりも、普段の月とは仕事のリズムが激変するので、退職してからも年末のてんてこまいは特別に記憶に残るのである。忙しさは、しかしクリスマスを過ぎるあたりで、急ブレーキでもかかったかのように霧消してしまい、仕事納めまでの何日間かは今度はヒマを持て余すことになる。このいわば空白期に、大げさに言えば、編集者は「行く年」とともに一度死ぬのである。再び生き返るのは、年が改まってからの数日後であり、それまでのわずかな期間は編集者としてのアンテナや神経をたたんでしまう。つまり、職業人的人格を放棄するというわけだ。そんな年末の曲折のことを、作者は「過ぎ去ればすべてなつかしい日々」(永瀬清子)とでも言いたげに、ひとりぽつねんと回顧している。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


December 27122011

 温め鳥由の字に宀(うかんむり)かぶす

                           中村堯子

談社日本大歳時記の森澄雄の解説によると「暖鳥(ぬくめどり)」とは「鷹は寒夜、鳥を捕えて、その体温でおのが足を暖め、夜が明けると放ってやるという。連歌作法書『温故日録』にはその鷹は鶻(こつ)となっているが、鶻は放った鳥の飛び去る方を見て、その日はその鳥を捕えないという。」と書かれている。最後の「その日はその鳥を捕えない」という部分に強者が弱者へほどこす慈悲を感じ、真偽のほどより報恩の話しとして事実を超えた季語のひとつである。掲句の由の字に宀をかぶせれば宙になる。ひと晩を生きた心地のしなかった小鳥が放り出された空中を思い、また宀の形が鷹のするどい爪根を思わせる。いつまでもあたたまらない指先をストーブにかざしながら、鳥の逸話と漢字が一致する不思議な一句が心を捕えて離さない。〈鳥渡る紙を鋏がわたりきり〉〈ハンカチを膝に肉派も魚派も〉『ショートノウズ・ガー』(2011)所収。(土肥あき子)


December 28122011

 てっさてっちり年を忘れる雑炊や

                           阿部恭久

の鍋料理は各種あって、それぞれの味わいがある。鍋を囲んでの団欒に寒さも吹っ飛んでしまう。特に冬が旬のアンコウやカモもいいけれど、やはりフグが一番か。フグで年忘れとは豪儀なものだ。「てつ」は関西では「フグ」を意味するから、「てっさ」は「フグ刺」。「てっちり」は言うまでもなく「ちり鍋」つまり「フグ鍋」。「てつ」は「鉄砲」で、毒に当たれば死ぬということ。今はフグを食べる誰もが「鉄砲」も「毒」も本気で意識はしないだろうが、昔は美味と毒とが隣り合っていてスリリングではあれ、とても「年を忘れる」どころではなかったかもしれない。フグは「少々しびれるくらいでないとアイソがない」とうそぶく御仁もたまにいらっしゃる。 今冬、毒を除去しないフグを売って営業停止になった上野の大手魚屋さんがあった。落語の「らくだ」になってしまってはたまらない。もちろん、今でも油断はできない。掲句は刺身から雑炊に到るフグのフルコースで年を忘れるというわけだから、来年はきっといいことがあるでしょう。恭久の「食ふ輩」十句には「蕎麦で越し餅を食ひけり詣でけり」「大寒や但馬牛来たり食ひにけり」など食欲旺盛な句がならぶ。「生き事」7号(2011)所載。(八木忠栄)


December 29122011

 悲しみはつながっているカーブする

                           徳永政二

011年も終わりに近づいている。自分が生きてきた中で今年は今までと違う一年だったと思う。3月11日の東日本大震災の津波と原発事故。私は現地へ行ったわけでもなく、被災した人たちから直接話を聞いたわけでもないが、深く心に突き刺さった出来事だった。いや「だった」と過去形ではなくそれは今も続いている。一度起こったことは片付くなんてことはない、それは形を変えていつまでも続くのだ、と言ったのは夏目漱石の『道草』の主人公だったと思うが、そうした現実から滲みだしてくる悲しみが人の心を伝わって双曲線を描きながら自分に帰ってくる。それが言葉になって表現できるようになるのはいつだろうか。川柳は俳句にはない直接性があり、時折ダイレクトな言葉の手ごたえを感じたいときには川柳を読む。いかようにも読める句かもしれないが、わたしには今年を終るにあたって一番心に響く句であった。この句が収録されている句集は沢山の写真と組み合わされて構成されているが、この句に添えられた写真もいい。灰色の空に突き出た太い帆先に一人たたずむ男が遥か遠方を見ている、その孤独な姿がこの句と実によく響き合っている。『カーブ』(2011)所収。(三宅やよい)


December 30122011

 お積りの酌をしづかに年忘

                           本井 英

積りという言葉を初めて知った。酒席でその酌限りでおしまいにすることとある。忘年会で酒を飲んでいる。これでおしまいにしようと最後の盃を口に運ぶ。日本酒、日本男子、和装の風景だ。こういうのを品格とかマナーというのだろう。なんでも口に入れればいいという少年期、青年期を過ごした身には眩しい風景だ。僕の父は息子にほんとうの品格というのはバーバリズムを一度通ったところにある。英国では血みどろのバイキングを経てジェントルマンが生れたように。と薀蓄を述べたが、息子はついに野蛮な豚児のまま還暦を迎えた。酒の飲み方も箸の持ち方もコース料理のテーブルに置かれたナイフとフォークをどちらから手に取るかさえいまだにわからない。「俳句年鑑」(2012)所載。(今井 聖)


December 31122011

 極月や父を送るに見積書

                           太田うさぎ

週に続いて『俳コレ』(2011)よりの一句。同じ作者で〈父既に海水パンツ穿く朝餉〉〈ぐんぐんと母のクリームソーダ減る〉とあり、いいなあこのご両親というか親子関係、などと思いながら拝読していたので、この一句は寂しい。近親者を送ったことがある人ならおそらく皆経験したであろう感情が、きっちり俳句になっている。事務的なことをこなしていると、気が紛れたりだんだん実感がわいたりするけれど、波のように間欠的に押し寄せてくる感情は、悲しいのか寂しいのかどこか腹立たしいのか、なんだかうまく言えない。そこをまさに言い得ているのだろう。極月も最後の一日、怒濤の一年がとりあえず終わろうとしている。よい年というのがどんな年なのかわからないけれどやはり、来年はよい年になりますように、と願わずにはいられない。(今井肖子)




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