今年もあと40日を切りました。年の瀬感が増してきましたね。(哲




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November 23112011

 虫程の汽車行く広き枯野哉

                           森 鴎外

イドに目にくっきりと見える句である。広い枯野を前にして、走行する汽車が「虫程」とは言い得て妙。遠くから眺められる黒々とした汽車は、スピードが遅く感じられるから、のろのろと這う虫のように見えるのだろう。わかるなあ。何という虫か? 芋虫のように見えたのだろうか。まあ、ともかく「虫」でよろしい。驀進する新幹線とはちがうのだから、いずれにしろカッコいい虫ではあるまい。電車ではなく汽車の時代であるゆえに、枯野はいっそう荒涼とした広がりを見せている。荒涼とした風景であるはずなのに「虫程の汽車」の登場によって、どことなく愛すべき汽車の風景みたいに感じられてもくるし、枯野を前にした作者の気持ちもゆったりしているようだ。ほぼ同時代の漱石や露伴らは、句作が先行していて小説に移行したわけだけれど、鴎外は小説家として一本立ちしてのち俳句も作るようになった。掲句は「明治三十七年十月於大荒地」と詞書がある。同時に作った句に「ただ一つあき缶ひかる枯野哉」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 22112011

 やすませてもらふ切株冬あたたか

                           宮澤ゆう子

ることができる大きさの切株とは、どれほどの樹齢なのかと調べてみると、松の場合、直径10センチで樹齢50年、40センチで100年〜200年が目安という。大きな切株であればさらに樹齢を重ねており、掲句の「やすませてもらふ」に込められた擬人観もたやすく理解できる。大木であった頃に広げていた枝に羽を休める小鳥や、茂る葉陰を走り回っていたリスは消えてしまったが、今では旅人が憩う切株として姿を変えた。本格的な冬を間近に控えた明るい空気のなかで、数百年を過ごした歳月に、今腰掛けているのだという作者の背筋の伸びるような思いが伝わる。長い時間をかけ大木となった幹はあっけなく切り倒され、年輪をあらわにした切株となり果てた。とはいえ、無惨な残骸とはならず、あたたかな日を吸い込みながらまた長い時間を過ごすのだ。『碧玉』(2009)所収。(土肥あき子)


November 21112011

 冬青空毎日遠くへ行く仕事

                           興梠 隆

く晴れた冬の朝、出勤時を詠んだ句だ。いつもと同じ遠い職場に出かけてゆく。そのまんま、である。それがどうしたの、である。しかし、そこまでしか読めない読者は不幸だ。この句の力は、そのまんまの中に、一種の隠し味を秘めているところにある。「遠くへ」は単なる距離感を示しているだけではなくて、同時に時間性を持ち合わせており、それが無理なく読者に伝えられている。寒いけれども、空は晴朗だ。いつものようにその空の下に出て行くときに、作者はふっと来し方行方のことを思っている。毎日さしたる意識もせずに遠い仕事に出かけてきたこれまでの生活というもの、そしてこれからもつづいていくであろう人生の道筋。そういう時間性、歴史性が一瞬明滅して、冬空に消えてゆく感慨を、「遠くへ」の語に語らせているというわけだ。そしてここには、格別な希望もなければ悲観もない。ただそのように自分が生きていることへの確認があるだけである。こういう気持ちは、ときに誰にでも湧いてくるだろう。ただ、誰も書きとめてこなかっただけである。作者名の読みは「こうろき・たかし」。『背番号』(2011)所収。(清水哲男)




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