未読のままの句集や詩集を年末までに読破しよう。あと四十数日だ。(哲




2011ソスN11ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 15112011

 ほどけゆく手紙の中の焚火かな

                           西原天気

火には炎の色と心地よい火の爆ぜる音が重なり、どこか湧き立つ思いになるものだ。なにもかも燃やしておしまい、という豪快な気持ちも焚火の本意だろう。しかし、掲句は焚火のなかの手紙に注目している。手紙だけをまとめて焼いているのか、その他のものと同時に焼いているなかで手紙をクローズアップしているのか。どちらにしても木片と違い、紙が燃えるときに音は出ない。しずしずと縮まりながら炭化していく。掲句は「ほどけゆく」としたことで、封筒から手紙へと火が移り、ひもといていくような時間があらわれている。炎は束になった紙をほどき、文章はばらばらの文字の集まりとなり、そしてひと文字ひと文字をしずかに浸食していく。ついさっきまで文字だった煙が、冬の空へと吸い込まれていく。『けむり』(2011)所収。(土肥あき子)


November 14112011

 天気地気こぼれそめたる実むらさき

                           池田澄子

ややかで可憐な「実むらさき」がこぼれて落ちる季節になった。「実むらさき」は紫式部の実。この情景を感傷に流すのはたやすいし、そういう句も多いけれど、この句は別の感動に私たちを連れて行く。作者は瞬間的に「実むらさき」がいまの姿になるまでの過程に思いを致して、この姿になるまでに「天気地気」、すなわち「天と地の気」が働きかけたもろもろの力の結果であることを感じている。ちっちゃな「実むらさき」にだって、ちゃんと宇宙的な力が働いていることに、あらためて魅惑されているのだ。などと解釈すると、理屈のかった句と誤解されそうだが、それを救っているのが「こぼれそめたる」という意識的な歌謡調の言葉遣いだろう。このことによって、句の情景はあくまでも自然の姿をそのまま素朴にとどめており、なおかつ宇宙的物理的な力の存在への思いを理屈抜きに開いてくれている。新しい抒情世界への出発が告げられている句と読んだ。俳誌「豈」(52号・2011)所載。(清水哲男)


November 13112011

 咳をしても一人

                           尾崎放哉

時記を読んでいて、どうしても立ち止まってしまうのが自由律の句です。冬の歳時記の「咳」の項を読んでいたら、有名なこの句に出くわしました。「咳をする」も「一人」も、寂しくつらいことを表す語彙の内に入ります。つまり両方とも同じ感情の向きです。でも、幾度読んでみても、この句には統一した流れを感じることができません。その原因はもちろん「も」が中ほどで句を深く折り曲げているからです。普通に読むなら、「咳をしてもだれも看病してくれない。わたしは一人きりでただ苦しみながら止まらぬ咳に苦しんでいる」ということなのでしょうが、どうもこの「も」は、もっと癖のある使い方のように感じられます。「一人」へ落ち込んで行く危険な曲がり角のような…、そんな感じがするのです。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社) 所載。(松下育男)




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