日本シリーズ。どちらのファンでもないけれど、見ていて愉しい。(哲




2011ソスN11ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 13112011

 咳をしても一人

                           尾崎放哉

時記を読んでいて、どうしても立ち止まってしまうのが自由律の句です。冬の歳時記の「咳」の項を読んでいたら、有名なこの句に出くわしました。「咳をする」も「一人」も、寂しくつらいことを表す語彙の内に入ります。つまり両方とも同じ感情の向きです。でも、幾度読んでみても、この句には統一した流れを感じることができません。その原因はもちろん「も」が中ほどで句を深く折り曲げているからです。普通に読むなら、「咳をしてもだれも看病してくれない。わたしは一人きりでただ苦しみながら止まらぬ咳に苦しんでいる」ということなのでしょうが、どうもこの「も」は、もっと癖のある使い方のように感じられます。「一人」へ落ち込んで行く危険な曲がり角のような…、そんな感じがするのです。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


November 12112011

 太き尻ざぶんと鴨の降りにけり

                           阿波野青畝

ばたきが聞こえ水しぶきが明るく飛び広がる様が見える。鴨にしてみれば、着いた〜、というところだろうか。ふっくらこじんまりして見える鴨だが、羽根を支える胸筋もさることながら、地上を歩く時左右に振れてユーモラスな尻は確かに立派だ。太き尻、ざぶん、降りにけり、単純だけれど勢いのある言葉が、渡り鳥のたくましさとそれを迎える作者の喜びを表していて気持ちの良い句である。先月、渡ってきたばかりと思われる鴨の一群に遭遇した。そのうちの何羽かは、等間隔に並ぶ細い杭の上に一羽ずつ器用に乗って眠っていたが、その眠りは、冬日向で見かける浮寝鳥のそれとは明らかに違ってびくともしない深さに見えた。初鴨だ、というこちらの思い入れだったかもしれないけれど。『鳥獣虫魚歳時記 秋冬』(2000・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


November 11112011

 旅客機閉す秋風のアラブ服が最後

                           飯島晴子

の句すでに十年前に清水哲男さんがこの欄で鑑賞してらして、僕はその文章を読みながら当時からこの句の風景に別のことを感じたのだった。そしてそのことをどうしても言いたくなった。アラブ服が最後に出てきてタラップを降りてゆくという清水さんの鑑賞は、登場してから視界の中にずっと見えているアラブ人の動きやら服装やらが印象としてこちら側に残って存在感があり説得力がある。それとは別にもうひとつ僕が感じた風景はアラブ服が最後に旅客機の中に消える図だ。僕はハイジャックを思ったのだった。「閉す」という語感から強い意図を感じる。この句所収の句集の刊行年1972という年もそのことを思わせた。どこからどこへのハイジャックか。日本からでないかぎり「秋風」はおかしいというご意見もあろう。しかし文化大革命然り、反イスラエル、反アメリカの闘争は国際的に見て全て劣勢に立たされてきた。「秋風」がその象徴として用いられてもいいではないか。全共闘世代の末端にいた僕の世代はまたテロ多き時代に生きた世代でもあった。この句からすぐにハイジャックを思った自分に苦笑しつつ、思った自分を否定するわけにはいかない。この句には晴子さんの自解があるらしい。僕は読んでいないし読みたくもない。自解をするのは自由だが、自解にとらわれるほど馬鹿げたことはない。清水さんの鑑賞も僕の鑑賞もこの作品にとっての真実だ。『蕨手』(1972)所収。(今井 聖)




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