November 072011
サイドカーに犬マフラーをひるがへし
保科次ね子
明日は立冬。マフラーの季節になってきた。句は実景だろう。いや、実景でないと面白くない。服を着せられた犬が散歩している姿はさして珍しくないけれど、マフラーを巻いた犬までがいるとは驚きだ。子供の歌に、雪が降ってくると「犬はよろこび庭かけまわる」とあるから、元来犬は寒さに強いと思っていたのだが、寒がりの犬もいるのだろうか。北風の中をオートバイで走ればたしかに寒いから、サイドカーに乗せた犬の飼い主としては、人間と同じように寒かろうとマフラーを巻いてやったのだろうが、作者はそういうところを見ているのではなくて、そのマフラーを翻している姿に着目している。格好いいなあと、去ってゆくサイドカーを見送っている。私はすぐに、マフラー姿のスヌーピーがバイクを飛ばして得意になっている図を連想した。ただスヌーピーとは違って、現実のこの犬は、どんな顔をしていたのだろうか。まさか得意顔ではないだろうし、むしろ迷惑そうな顔つきだったかもしれない。だとすれば、哀れでもあり可笑しくもある。あれこれ想像できて、愉快な一句だ。『しなやかに』(2011)所収。(清水哲男)
November 062011
芝居見る後侘びしや秋の雨
炭 太祇
作者は江戸時代の人ですから、ここでいう芝居は歌舞伎のことなのでしょう。芝居小屋の中では、夢見るように過ぎて行った華やかな時間が、外に出た瞬間に消えてしまったわけです。気分は急に現実にもどって、冷たい風が吹いているなと思って空を見上げれば、細い雨がそれなりの密度で降っています。この句が素敵なのは、芝居と現実の境目の線がくっきりと描かれているところです。日々の生活は地味なものだし、悩み事はいつだってあります。たまには芝居にうっとりして、あれやこれやのいやなことを忘れる時間がなければ、人生、やってられないよと、自分を慰めながら雨の道を歩き出すわけです。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)
November 052011
夜學子がのぼり階段のこりをり
國弘賢治
久しぶりに読みたくなって開いた『賢治句集』(1991)にあったこの句は昭和三十二年、亡くなる二年前、四十五歳の作。夜長というより、夜寒の感じがする句である。深夜の静けさの中、帰宅した夜学生が階段をのぼる足音が聞こえ、やがて扉の閉まる音がしてまた静かになる。足音が消えて元の静けさに戻ったのだが、さっきまで意識していなかった階段の存在が、作者の意識の闇の中に浮かび上がり闇は一層深くなる。眠れない夜の中にいて、作者はやがて消えていく自分を含めた人間の存在に思いをめぐらしていたのだろうか。一生病と共にありながら、俳句によって解放されたと自ら書き残している作者にとって、句作によって昇華されるものが確かにあったのだとあらためて思う。(今井肖子)
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