十月尽。冬も間近、季節はあわただしく入れ替わってゆきます。(哲




2011ソスN10ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 31102011

 菊の後大根の外更になし

                           松尾芭蕉

の季節は春の梅ではじまり、秋の菊で終わる。「菊」は「鞠」とも書き、この字は「窮」に通じていて、物事の究極、最後を意味している。つまり菊は「最後の花」というわけで、慈鎮和尚に「いとせめてうつろふ色のをしきかなきくより後の花しなければ」という歌がある。これを踏まえて、芭蕉は掲句を詠んだらしい。「そんなことはない。菊の花が終わった後にも、真っ白くて愛すべき大根があるではないか」と解釈できるのだが、よく考えるまでもなく、菊と大根を並べるということは、すなわち花と根とを比べていることになるので、いくらパロディとは言ってもかなりの無理がある。突飛すぎる。大根も花をつけるが、季節は春だから句にはそぐわない。誰かこのことを指摘していないかと調べてみたけれど、見当たらなかった。そこで私流の解釈をしておけば、この句は花と根を比較しているのではなくて、両者の味わいを比較したのだと思う。つまり「菊」は花を指すのではなく「味」を指している。要するに芭蕉は慈鎮和尚の歌の菊の花を「菊の味わい」と読み替えてパロディ化したわけで、この菊は「食用菊」なのだと思う。菊も美味いが、大根も負けず劣らずの美味さだよ、と。食用菊なら平安の昔からあったそうだから、理屈も通る。どうであろうか。(清水哲男)


October 30102011

 次の間の灯で飯を喰ふ夜寒かな

                           小林一茶

うして隣の部屋の灯で食べているのかは分りませんが、たしかにそんな経験、一度か二度はあったなと思います。そう思ってしまったらもう、句の魅力に捕らわれているわけです。書かれていることは、ただありのままの様子を写しただけです。それなのに、読者の想像力は妙に膨らんで行きます。不思議です。この句に感心するのは、描き方の巧さではなく、これを描けば句になるという感覚です。隣の部屋の明かりで夕食を食べざるをえないのは、肩身の狭い状況にあるからなのでしょうか。ひとりで向かう小さな御膳の前で、悲しみそのもののような食事をしているのかもしれません。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


October 29102011

 自動ドア出でて一歩に菊日和

                           阿部慧月

は「晩秋の王花」(虚子編歳時記)とある。先日、菊の花について話題になったのだが、母くらいの年代は、女学校で一人一鉢菊を育てたのだという。きれいに咲かせることを競ったりしたそうで、菊の御紋章に代表されるように、菊は雅で気品ある花であり、他の花とは一線を画す花であるらしい。それに対して私達の年代から下になるとどうしても菊というと、仏の花、のイメージが強いのだ。そういう先入観なしで見れば確かに、菊の白や黄はくっきり鮮やかで、菊日和、という言葉からは、ひんやりとした晩秋の晴れわたった空気が感じられる。そんな時『菊日和』(2005)という句集を本棚で見て手にとった。その中の一句である掲出句、「一歩に」の「に」によって、澄みきった日差しを全身に受けて、まさに菊日和であると実感している作者がそこに立っているのが見える。今週から始まった明治神宮の菊花展(〜11.23)に足を運んでみようかなと思ったりしている。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます