そろそろ「おでん」の季節に。コンビニのって美味しいのかな。(哲




2011ソスN10ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 28102011

 水鳥の月夜も道をつくりをり

                           吉田鴻司

和55年作のこの句には前書きがある。「樋本詩葉氏の絶句『ゆりかもめ山河のうねり京にいる』あり」と。いるは入るの意味だろう。樋本詩葉という名前から僕の極めて個人的な記憶が蘇った。44年に米子の高校を出て京都の予備校に入った僕は上賀茂の近くで寮生活をしていた。この頃すでに俳句を始めていた僕は上賀茂御園橋のたもとにある民家の開け放った玄関の中に見える草田男の掛け軸が気になってしかたがなかった。表札の詩葉という名前とその掛け軸から俳人のお宅だろうと推測した僕は突然無謀にも門を入って「俳句をやってらっしゃるんですか」と声を掛けた。細身の品のいいご主人が出ていらして「丸山海道先生の句会をやっていますから、いつでもどうぞ」とお誘いをいただいた。今から思うと汗顔の至りである。海道さんの句会に出た僕は講評までいただく幸運を得たが、詩葉氏宅での句会出席はその一度きりに終った。浪人という自分の立場を少しは考えたのである。その後の人生の俳句との関りの中でこの体験を時折思い出してはいた。このたび鴻司さんの句集を読んでこのお名前を見て詩葉さんがお亡くなりになられたこと。鴻司さんと交流があられたことを初めて知った。御園橋のお宅は京都市の北端にあるから「山河のうねり京にいる」の景もまさにそのまま。その絶句を踏まえた「道をつくりをり」もみごとな悼句というほかはない。そしてその道の端を僕も一時歩かせていただいたのだとつくづく思ったしだいである。『吉田鴻司全句集』(2011)所収。(今井 聖)


October 27102011

 手に持ちて葡萄は雨の重さかな

                           北川あい沙

緑のマスカット、紫のデラウェイ、深い藍色のピオ―ネ、青紫のベリーA、様々な種類の葡萄が店先に並んでいる。葡萄はたとえ国内産であっても、遠いところからやってきた異国の果物という感じがする。口に含んでつるりと冷たい実が舌に滑り落ちる。大きな雨粒があれば葡萄のように優しい味がするだろうか。雨に重さがあるとするなら、明るくて軽い春雨は赤いイチゴ。しとしと冷たい秋雨は少し持ち重りする紫の葡萄。というところだろう。見えない雨の重さを身近な果物に仮託することで、しとしと降り続ける陰気な雨も好ましく思われる。今日は朝から雨が降っているけど、このような句と出会うとどんよりした気持ちが明るくなる。『風鈴』(2011)所収。(三宅やよい)


October 26102011

 灯を消して雨月の黄菊我も嗅がむ

                           北原白秋

書に「秋成よ」とある。言うまでもなく、上田秋成の「雨月物語」を指している。「雨月」とは名月の夜のはずなのに、雨が降ったりして月を見ることができないこと。「雨名月」「雨の月」などの傍題がある。「雨」と「月」の取り合わせが、きれいに決まりすぎているような季語。句意はそのままでむずかしくはない、単純な情景である。ただ、視覚を捨て去って嗅覚だけを研ぎすましているところがミソ。今夜は雨月を眺めようがないから、あかりを消し嗅覚におのれを集中して、黄菊の香を楽しもうというわけ。「我(あ)も」とあるところから、菊の香を嗅いでいるのは、どうやら自分ひとりだけではなさそうだ。酒の香もほんのりまじっているのかもしれない。薄暗い闇のなかにありながら気品のある華やかさが漂っていて、いかにも白秋らしい世界ではないか。昼となく夜となくそこかしこ過剰な光があふれ、かまびすしい音声が蔓延している私たちの日常にあって、しばしの時間を嗅覚のみで過ごす風情は好ましい。石川淳の句に「あまつさへ湖の香さそふ雨月かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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