首相3割大臣2割給与カット。そんな程度で大増税の免罪符にするな。(哲




2011ソスN10ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 27102011

 手に持ちて葡萄は雨の重さかな

                           北川あい沙

緑のマスカット、紫のデラウェイ、深い藍色のピオ―ネ、青紫のベリーA、様々な種類の葡萄が店先に並んでいる。葡萄はたとえ国内産であっても、遠いところからやってきた異国の果物という感じがする。口に含んでつるりと冷たい実が舌に滑り落ちる。大きな雨粒があれば葡萄のように優しい味がするだろうか。雨に重さがあるとするなら、明るくて軽い春雨は赤いイチゴ。しとしと冷たい秋雨は少し持ち重りする紫の葡萄。というところだろう。見えない雨の重さを身近な果物に仮託することで、しとしと降り続ける陰気な雨も好ましく思われる。今日は朝から雨が降っているけど、このような句と出会うとどんよりした気持ちが明るくなる。『風鈴』(2011)所収。(三宅やよい)


October 26102011

 灯を消して雨月の黄菊我も嗅がむ

                           北原白秋

書に「秋成よ」とある。言うまでもなく、上田秋成の「雨月物語」を指している。「雨月」とは名月の夜のはずなのに、雨が降ったりして月を見ることができないこと。「雨名月」「雨の月」などの傍題がある。「雨」と「月」の取り合わせが、きれいに決まりすぎているような季語。句意はそのままでむずかしくはない、単純な情景である。ただ、視覚を捨て去って嗅覚だけを研ぎすましているところがミソ。今夜は雨月を眺めようがないから、あかりを消し嗅覚におのれを集中して、黄菊の香を楽しもうというわけ。「我(あ)も」とあるところから、菊の香を嗅いでいるのは、どうやら自分ひとりだけではなさそうだ。酒の香もほんのりまじっているのかもしれない。薄暗い闇のなかにありながら気品のある華やかさが漂っていて、いかにも白秋らしい世界ではないか。昼となく夜となくそこかしこ過剰な光があふれ、かまびすしい音声が蔓延している私たちの日常にあって、しばしの時間を嗅覚のみで過ごす風情は好ましい。石川淳の句に「あまつさへ湖の香さそふ雨月かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 25102011

 しばらくは手をうづみおく今年米

                           小島 健

い頃から食事の都度「ご飯を残してはいけない」「お米という字は八十八の手間がかかるという意味だ」と聞かされ、食事ができたから呼んできて、と言われれば「ごはんだよー」と声を掛けてきた。朝ご飯、昼ご飯、晩ご飯、どれもほっこりとやさしい響きがする。今や米食は、必ずしも毎回の食事に顔を出すものではなくなったが、かつて日本人にとってお米とは食事そのものだったのだ。子どもの頃は炊きあがったご飯のつやつやとした美しさとおいしさしか知らなかったが、大人になってからは精米されたばかりの米にも輝く白さと、甘い香りがあることを知った。掲句の「うづみおく」とは、うずめておくの意。きらきらとした新米が届き、ふと手を差し込んでみれば、小さな一粒一粒が、指の間をふさぎ、ひやりとした感触が手を包み込む。一般的に「米粒ほど」とは、小さいものの例えだが、この丹念に手をかけられた小さき一粒はことのほか美しく尊いものである。新米に埋めた手をぎゅっと握り、命のひしめきをじかに感じてみたくなった。〈夕星や鯨ぶつかる音がする〉〈冬眠やさぞ美しき蛇の舌〉『小島健集』(2011)所収。(土肥あき子)




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