都市対抗野球と言いながらいまは企業対抗に。不人気の理由だ。(哲




2011ソスN10ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 24102011

 刃は波に波は翼に月は東に

                           中村安伸

語の『千早降る』は、町内一の物知りと言われる隠居が、百人一首の「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」を珍解釈するという噺だ。「千早という遊女にふられた相撲取りの竜田川が……」と解釈されていくのだが、以下の今日の句の解釈も、負けず劣らずのものかもしれない。というのもどういうわけか、この句を読んだ途端に、私は国定忠次(忠治とも)が赤城の山を捨てる決意をした芝居のシーンを思い浮かべてしまったのだった。場面は忠次が「赤城の山も今宵限り……可愛い子分の手めえたちとも、別れ別れになる首途だ」と名科白を決めたあとで愛用の脇差を抜き、雁の飛ぶ空に浮かんだ月の光で、じいっと刀身に見入るという泣かせ所である。刀には焼き刃の際につく刃文という模様がある。波形が多い。したがって「刃は波に」である。そこで刀への視線を上げていくと、刀の尖の空には波形が翼に転化したような姿の雁が鳴きながら飛んでいく様子が見て取れる。つまり「波は翼に」なのであり、下句の「月は東に」は説明するまでもないだろう。「加賀の国の住人小松五郎義兼が鍛えた業物、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ、生涯手めえという強い味方があったのだ」。忠治万感の思いの情景を読んだ句といったん思い込んでしまうと、他の解釈は浮かんでこなかった。「俳壇」(2011年11月号)所載。(清水哲男)


October 23102011

 踏切の燈にあつまれる秋の雨

                           山口誓子

あ寒いなと、秋が終わってしまうことを感じたのは、雨の日の夜でした。ついこないだまで暑くてしかたがなかったのに、もう冬になってしまうのかと、なんだか寂しい気持ちになります。突然の雨に傘の用意もなく、濡れながら帰宅を急いでいます。明日やるべき仕事のことなどを考えながら、踏切が開くのを待っています。顔をあげてみれば、踏切の光の中を、雨がしきりに降りつのっています。今日の句、「あつまれる」というのは、なるほどうまい表現です。うまい表現だということが、はっきりと前面に出ているのに、特段嫌味な感じがしないのは、そのうまさが中途半端ではないからなのでしょう。踏切が開いて足早に渡ってゆきます。自分が集まるべき、燈の下へ向かって。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


October 22102011

 走るやうに父は老いたり花薄荷

                           苑 実耶

がしぶる父を連れて病院へ行ったのは、二年前の十月一日。翌日入院してから、あれほどしっかりしていた頭も含め、全身がぐんと衰えていった。それはさびしいことではあったが、冷静に自分の病状を自己診断したりすることもなくなり、喉が渇いたとか、少し寒いとか、その刹那のことだけを考えるようになっていった。亡くなるまでの病院通いは、十一月二十日まで五十日間。この時期になると、駅のホームで風の音をぼんやりと聞いていたことなど思い出す。そういえば、何十年も走ることなどなかった父だったが、まさに最後の数ヶ月は、走るやうに、終わってしまった。薄荷の花のうすむらさきの香りの透明感が、すこし悲しいけれど静かだったその時の気持ちに寄り添うようで、きっと来年の今頃もこの句を思い出すだろうな、と思っている。『大河』(2011)所収。(今井肖子)




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