ガスコンロの着火不具合がつづいている。交換するしかないか。(哲




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October 23102011

 踏切の燈にあつまれる秋の雨

                           山口誓子

あ寒いなと、秋が終わってしまうことを感じたのは、雨の日の夜でした。ついこないだまで暑くてしかたがなかったのに、もう冬になってしまうのかと、なんだか寂しい気持ちになります。突然の雨に傘の用意もなく、濡れながら帰宅を急いでいます。明日やるべき仕事のことなどを考えながら、踏切が開くのを待っています。顔をあげてみれば、踏切の光の中を、雨がしきりに降りつのっています。今日の句、「あつまれる」というのは、なるほどうまい表現です。うまい表現だということが、はっきりと前面に出ているのに、特段嫌味な感じがしないのは、そのうまさが中途半端ではないからなのでしょう。踏切が開いて足早に渡ってゆきます。自分が集まるべき、燈の下へ向かって。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


October 22102011

 走るやうに父は老いたり花薄荷

                           苑 実耶

がしぶる父を連れて病院へ行ったのは、二年前の十月一日。翌日入院してから、あれほどしっかりしていた頭も含め、全身がぐんと衰えていった。それはさびしいことではあったが、冷静に自分の病状を自己診断したりすることもなくなり、喉が渇いたとか、少し寒いとか、その刹那のことだけを考えるようになっていった。亡くなるまでの病院通いは、十一月二十日まで五十日間。この時期になると、駅のホームで風の音をぼんやりと聞いていたことなど思い出す。そういえば、何十年も走ることなどなかった父だったが、まさに最後の数ヶ月は、走るやうに、終わってしまった。薄荷の花のうすむらさきの香りの透明感が、すこし悲しいけれど静かだったその時の気持ちに寄り添うようで、きっと来年の今頃もこの句を思い出すだろうな、と思っている。『大河』(2011)所収。(今井肖子)


October 21102011

 俯きて鳴く蟋蟀のこと思ふ

                           山口誓子

わゆる俳句的情緒を諷詠する精神に欠けているのは自分を見つめる態度がおろそかになること。悲しいだのうれしいだのきれいだの、そんな形容が俳句にタブーであることの理由はよくわかる。観念的、主観的、説明的な語句が如何に饒舌で、この短詩形に不適合であるかも納得がいく。しかし、だからといって諷詠する「私」自身への内省を怠ってはいけない。それは表現の根幹に関ることだ。蟋蟀を聞いている。鳴いている蟋蟀が俯いていると思うのは自己投影だ。こういう内省があって、そこに個人も時代も映し出される。今では技術的なオチとして、あるいはちょっとしたダンディズムのように語られる風狂だの洒脱だの飄逸だのという精神も、本来は捨身の生き方から生まれたのではなかったか。「俯きて」が俳句という詩の核心だ。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)




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