世田谷の高放射線量検出。民家床下にあった瓶のラジウムだったと。(哲




2011ソスN10ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 14102011

 石に木に父の顔ある秋の暮

                           北 光星

に木に風に空に雲に死者の顔が映る。花鳥風月の中に死者を見る。ここまでは諷詠的情緒だ。ナイフやフォークや一枚の皿や一本のネジやボルトや切れそうな裸電球にも死んだ父は宿る。どこにでも死者の記憶のあるものや場所に死者は蘇る。死者と直接関係のない対象でもそれを見たとき言ったとき思い出せば死者は現れる。『天道』(1998)所収。(今井 聖)


October 13102011

 天高しほがらほがらの伊勢うどん

                           奥坂まや

らっとした秋晴れが何日か続いている。暑くもなく、寒くもなく公園に寝転んで透き通った空を見上げるのにいい頃合だ。そんな気持ちのいい秋の天気と取り合わされている「伊勢うどん」とはこれ如何に。ウィキペディアの説明によると、「黒く濃厚なつゆを柔らかく煮た極太の麺にからめて食べる。麺をゆでる時間が非常に長く、通常のうどんが15分程度であるのに対して1時間弱ほど茹でる」そうで、伊勢参りの人のために提供されたのが始まりとか。きっとおおらかで素朴なうどんなのだろう。参道の店で伊勢うどんを食べると長旅の疲れも癒えて「ほがらほがら」と機嫌がよくなるのだろう。広々と澄みわたった空にほがらかに唄ううどんが「伊勢へおいでよ」と呼んでいる気がする。『妣の国』(2011)所収。(三宅やよい)


October 12102011

 天高し天使の悲鳴呑みこんで

                           小長谷清実

格的な秋は空気も澄みきって、空が一段と高く感じられる。季語では「秋高し」「空高し」とも。晴ればれとして感じられる気候だというのに、ここではいきなり「天使の悲鳴」である。それはいかなる「悲鳴」なのか詳らかにしないが、天が高く感じられる時節であるだけに、空に大きく反響せんばかりの「悲鳴」には、何やら尋常ならざるものがひそんでいることは言うまでもない。天使が悲鳴をあげるなんて、よほど悲劇的状況なのであろう。しかも高く感じられる秋の天が「天使の悲鳴」を「呑みこんで」いるゆえに、空がいっそう高く感じられるというのである。穏やかではない。この句はずっと以前に作られたものだけれど、私は今年三月の東日本大震災を想起せずにいられなかった。人間や自然のみならず、天使さえもが凍るような悲鳴をあげ、それを本来晴ればれとしているはずの秋天が、丸ごと呑みこむしかなかった。いや、「なかった」と過去形で語って済ますことは、今もってできない。晴ればれとした秋も「天高し」であるだけに、呑みこまれた「悲鳴」は天空や地上から容易に消えることなく、より重たく感じられてくる。それゆえに天も、いつになく高く高く感じられる。清実には、他に「田楽やことに当地の味噌談義」という彼らしい句もある。「OLD STATION」14号(2008)所載。(八木忠栄)




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