朝夕はずいぶん肌寒くなってきました。カーディガンが必要に。(哲




2011ソスN10ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 05102011

 正面に月を据えたる秋の酒

                           一龍斎貞鳳

識的かもしれないが、まあ、呑んベえなら「秋の酒はこうでありたい」という願いを、絵に描いたような句である。「正面に月」だからではないが、まさしく正面から正攻法で詠まれた、一点の曇りもない句である。月と斜っかいではなく、正面から腰を据えて向き合っている。たまにこういう句に出会うとホッとする。年がら年中、時も場所もわきまえないで、のべつ酒杯をはこぶ左党諸氏にとっても、秋という季節に酌む酒はまた格別であろう。しかも皓々と照る月を正面に眺めながらの酒である。大勢集まってにぎやかに酌むもよし、気の合った二、三人、あるいは一人静かに酌む酒であってもいい。だが、こういう設定は環境的にむずかしくなってきてはいないか。掲句には「四十一年九月二十九日、中秋名月に我が家にて」と詞書が添えられている。貞鳳は言うまでもなく講談師。テレビ・ドラマの「お笑い三人組」で知られたが、昭和四十六年に参議院議員になった。その後、国会対策副委員長、政務次官などを歴任して引退した。俳句は独学二十年。久保田万太郎、富安風生らに私淑したという。随筆集『想ひ川』(1978)には鷹羽狩行選考による「病妻抄」として約三百句が収められている。他に「秋刀魚にも義理人情あるがごと」などの句がある。『講談師ただいま24人』(1968)所収。(八木忠栄)


October 04102011

 四つ折りの身の濡れてゐる秋の蛇

                           山崎祐子

紙などで四つ折りといえば、十文字に四分割することだが、こと蛇の場合にはその名の通り蛇腹折りになっている姿だろう。山折りと谷折りを繰り返すかたちを「蛇腹」と名付けた感覚の生々しさにあらためて脱帽するが、掲句はあえて「四つ折り」と形容したことで、濡れた蛇の身体に大きな折り目が生まれ、光沢が加わった。そして「身」といわれれば、四肢もなく首や腰などのくびれもない蛇にとって、どこもくまなく身以外のなにものでもなく、頭といってどこまで頭か、尾といってどこからが尾か、など異様な容姿へと思いは至る。とはいえ、空に架かる虹が天と地を結ぶ蛇の姿と見なされていたり、稲光りが美しい白蛇に変わったり、古来よりたびたび神の使いとされる生きものであることも、現実の姿に一層の妖しい力を与えている。蛇はまるで儀式のように、夜露で浄められた身を丁寧に四つにたたみ、冬眠のその時を迎えるための準備を整える。「りいの」(2011年2月号)所載。(土肥あき子)


October 03102011

 薄く薄く梨の皮剥くあきらめよ

                           神野紗希

物の皮を剥くのは得意なほうだと思う。小学生のころに、さんざん台所仕事をさせられたせいもしれない。林檎などは、中途で一度も途切らすことなく皮を垂らして剥くことができる。と、そんなに自慢するほどのことでもないけれど、これが梨剥きとなるとけっこう難しい。林檎に比べると梨は肌理が粗いので、すぐ果肉に刃が食い込みがちだからだ。どうしても薄くなめらかとはいかずに、凹凸の部分ができてしまう。作者はべつに一本の皮を垂らそうとしているわけではなさそうだが、それでも「薄く薄く」剥こうと心がけている。なかなかに集中力を要する作業だ。何のためかと言えば、自分に何かを「あきらめよ」と言い聞かせるためである。自分自身に決断をうながすための、いわば手続きのような作業として可能な限り薄く薄く剥こうとしている。しかし剥きながら、なお決断することをためらっている様子もうかがえる。なんという健気な逡巡だろうか。下五にずばり「あきらめよ」と配した句柄は新鮮だが、内実は古風な抒情句と言えるだろう。好きだな、こういうの。「ユリイカ」(2011年10月号)所載。(清水哲男)




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