ウォール街のデモ途切れず。アメリカも体力が落ちてきたな。(哲




2011ソスN10ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 04102011

 四つ折りの身の濡れてゐる秋の蛇

                           山崎祐子

紙などで四つ折りといえば、十文字に四分割することだが、こと蛇の場合にはその名の通り蛇腹折りになっている姿だろう。山折りと谷折りを繰り返すかたちを「蛇腹」と名付けた感覚の生々しさにあらためて脱帽するが、掲句はあえて「四つ折り」と形容したことで、濡れた蛇の身体に大きな折り目が生まれ、光沢が加わった。そして「身」といわれれば、四肢もなく首や腰などのくびれもない蛇にとって、どこもくまなく身以外のなにものでもなく、頭といってどこまで頭か、尾といってどこからが尾か、など異様な容姿へと思いは至る。とはいえ、空に架かる虹が天と地を結ぶ蛇の姿と見なされていたり、稲光りが美しい白蛇に変わったり、古来よりたびたび神の使いとされる生きものであることも、現実の姿に一層の妖しい力を与えている。蛇はまるで儀式のように、夜露で浄められた身を丁寧に四つにたたみ、冬眠のその時を迎えるための準備を整える。「りいの」(2011年2月号)所載。(土肥あき子)


October 03102011

 薄く薄く梨の皮剥くあきらめよ

                           神野紗希

物の皮を剥くのは得意なほうだと思う。小学生のころに、さんざん台所仕事をさせられたせいもしれない。林檎などは、中途で一度も途切らすことなく皮を垂らして剥くことができる。と、そんなに自慢するほどのことでもないけれど、これが梨剥きとなるとけっこう難しい。林檎に比べると梨は肌理が粗いので、すぐ果肉に刃が食い込みがちだからだ。どうしても薄くなめらかとはいかずに、凹凸の部分ができてしまう。作者はべつに一本の皮を垂らそうとしているわけではなさそうだが、それでも「薄く薄く」剥こうと心がけている。なかなかに集中力を要する作業だ。何のためかと言えば、自分に何かを「あきらめよ」と言い聞かせるためである。自分自身に決断をうながすための、いわば手続きのような作業として可能な限り薄く薄く剥こうとしている。しかし剥きながら、なお決断することをためらっている様子もうかがえる。なんという健気な逡巡だろうか。下五にずばり「あきらめよ」と配した句柄は新鮮だが、内実は古風な抒情句と言えるだろう。好きだな、こういうの。「ユリイカ」(2011年10月号)所載。(清水哲男)


October 02102011

 原爆も種無し葡萄も人の智慧

                           石塚友二

の句を初めて目にした時には、人の浅智慧が冒した自然冒涜への抗議かと感じました。でも、それはどうも勘違いだったようで、句が表現しているのは、この世に人が加えた変更を、ただ並べて見せただけにすぎません。それにしても、種無し葡萄に並べられた原爆という言葉の存在は、重く感じられます。原発の問題がこれほど身近に迫ってきた今年だからでもあるのでしょう。繰り返すようですが、句は、「原爆」と「種無し葡萄」を並置しただけのもので、ことさら人の智慧を誉めているわけでも、批判しているわけでもありません。つまりはそこが、俳句の俳句たる所以なのでしょう。あるいは俳句に限らず、表現物というのは、おおむねそのようなものなのかもしれません。事実を平然と読者に見せることの恐さ。あとは余計な批評を加えない。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)




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