東京地方もぐんと涼しくなってきました。風邪引きにご用心。(哲




20111003句(前日までの二句を含む)

October 03102011

 薄く薄く梨の皮剥くあきらめよ

                           神野紗希

物の皮を剥くのは得意なほうだと思う。小学生のころに、さんざん台所仕事をさせられたせいもしれない。林檎などは、中途で一度も途切らすことなく皮を垂らして剥くことができる。と、そんなに自慢するほどのことでもないけれど、これが梨剥きとなるとけっこう難しい。林檎に比べると梨は肌理が粗いので、すぐ果肉に刃が食い込みがちだからだ。どうしても薄くなめらかとはいかずに、凹凸の部分ができてしまう。作者はべつに一本の皮を垂らそうとしているわけではなさそうだが、それでも「薄く薄く」剥こうと心がけている。なかなかに集中力を要する作業だ。何のためかと言えば、自分に何かを「あきらめよ」と言い聞かせるためである。自分自身に決断をうながすための、いわば手続きのような作業として可能な限り薄く薄く剥こうとしている。しかし剥きながら、なお決断することをためらっている様子もうかがえる。なんという健気な逡巡だろうか。下五にずばり「あきらめよ」と配した句柄は新鮮だが、内実は古風な抒情句と言えるだろう。好きだな、こういうの。「ユリイカ」(2011年10月号)所載。(清水哲男)


October 02102011

 原爆も種無し葡萄も人の智慧

                           石塚友二

の句を初めて目にした時には、人の浅智慧が冒した自然冒涜への抗議かと感じました。でも、それはどうも勘違いだったようで、句が表現しているのは、この世に人が加えた変更を、ただ並べて見せただけにすぎません。それにしても、種無し葡萄に並べられた原爆という言葉の存在は、重く感じられます。原発の問題がこれほど身近に迫ってきた今年だからでもあるのでしょう。繰り返すようですが、句は、「原爆」と「種無し葡萄」を並置しただけのもので、ことさら人の智慧を誉めているわけでも、批判しているわけでもありません。つまりはそこが、俳句の俳句たる所以なのでしょう。あるいは俳句に限らず、表現物というのは、おおむねそのようなものなのかもしれません。事実を平然と読者に見せることの恐さ。あとは余計な批評を加えない。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


October 01102011

 切れ長の眼をしてゐたり秋の蝶

                           三吉みどり

日たまたま数人で秋の蝶の話をしていた。曰く、秋の蝶って私にとっては紋黄蝶、風には乗らないで漂っている、空中で一瞬止まることがある、等々。それぞれイメージを持っているようだが羽根の色や動きなど、あくまで全体の姿で把握され、その先は凍蝶へ。そんな時掲出句を読み、蝶の顔を思い浮かべてみる。しょぼい三角たれ目の私にとって、切れ長の涼しい目元はまさに憧れだが、複眼である半球のような眼はどうも切れ長とは思えなかった。それなのに句には不思議なリアリティーを感じて、蝶の顔写真をあれこれ探すと、いかに自分が蝶の顔にいい加減なイメージを持っていたか、よくわかった、特に紋白蝶の水色の眼の、色も形も美しいこと・・・この句は、ゐたり、であるから作者は蝶の顔をしみじみ見たのかもしれない。いずれにしても、切れ長の眼が、一瞬で秋の蝶を読者の心に飛ばすのだ。『花の雨』(2011)所収。(今井肖子)




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