来週からは気温がぐんと下がるらしい。夏物を片付けよう。(哲




2011N929句(前日までの二句を含む)

September 2992011

 片仮名でススキと書けばイタチ来て

                           金原まさ子

ーん。不思議な句だ。芒、薄、すすき、金色に吹かれるその姿を表す表記はいろいろ選べる。ススキと書くとどうしてイタチが来るのか。だいたい「どうして」って意味を問うこと自体野暮なのだろう。この句と出会って思い出すたび気になり、ずっと心の片隅に引っかかっている。確かに裾の開いた片仮名でススキと書いてみると、その隙間をつややかな尾を光らせてつつつつとイタチが走り抜けてゆきそうな気がする。「ススキと書けばイタチ来て」、のリズムも音の流れもステキだ。未だによい解釈は思い浮かばないけど、街で「スズキ」自動車の看板を見てもはっとしてしまう。きっと私はこの句をずっと忘れないだろう。どうしても解けない謎は謎のまま、まるごと愛し続けることが作者が感じた不思議と共鳴する唯一の方法かもしれない。『遊戯の家』(2010)所収。(三宅やよい)


September 2892011

 わが庭に何やらゆかし木の実採り

                           瀧口修造

外やあの瀧口修造も俳句を書いた。掲句の「木の実」とは、ドングリなどのたぐいの「木の実」ではなく、実際この場合は「オリーブの実」なのである。もちろん鑑賞する側は、「木の実」一般と解釈して差し支えないだろう。私も何回かお邪魔したことがあるけれど、瀟洒な瀧口邸の庭には枝をこんもりと広げた立派なオリーブの大樹があった。秋になると親しい舞踏家や美術家たちが集まって、稔ったたくさんの実を収穫し、それを手のかかる作業を通じて、塩漬けして瓶詰めにする。それを親しい人たちに配る、という作業が恒例になっていた。私もある年一瓶恵まれたことがある。ラベルには「Noah’s Olives」と手書きされていた。私はいただいた瓶が空になってからも大事に本棚に飾っていたのだが、いつかどこやらへ見えなくなってしまった。秋の一日、親しい人たちがわが庭で、楽しそうにオリーブ採取の作業をしている様子を、修造は静かに微笑を浮かべながら「ゆかし」と眺めていたに違いない。ワガ庭モ捨テタモノデハナイ。「何やらゆかし」は、芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」を意識していることは言うまでもない。そこに修造独特の遊びと諧謔精神が感じられる。修造には、吉田一穂に対する弔句「うつくしき人ひとり去りぬ冬の鳥」がある。『余白に書くII』(1994)所収。(八木忠栄)


September 2792011

 小鳥来る三億年の地層かな

                           山口優夢

6回俳句甲子園大会最優秀句となった作品である。三億年前とはペルム紀という年代にあたる。ペルム紀は地球史上最大の大量絶滅で時代を終えた。それは連続した火山噴火の大量の粉塵によって太陽光が遮られたことによると考えられているが、これが9割の海洋種と7割の地上動物が死に絶えさせた。その後一億年の時間をかけ、生命は辛抱強く進化をとげ、ふたたび命あふれるジュラ紀、白亜紀を経て、現在の地表まで続いている。小鳥たちが翼を持ち、子育てのために移動をする手段を覚えたことも、悠久の歴史のなかで繰り返し淘汰され選択された結果である。掲句は渡ってきた小鳥たちを見上げ、踏みしめている土の深部に思いを馳せる作者が、地表から小鳥たちまでの空間を結びつける。地層を重ねる地球の上に立っている事実は、どこか地球のなりたちに加わっているような、むずむずとくすぐったい、雄大な心地となるのである。〈あぢさゐはすべて残像ではないか〉〈鳥あふぐごとナイターの観衆は〉『残像』(2011)所収。(土肥あき子)




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