昔の写真のネガ。スキャンしようと思いながら手がつかず。(哲




2011ソスN9ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2792011

 小鳥来る三億年の地層かな

                           山口優夢

6回俳句甲子園大会最優秀句となった作品である。三億年前とはペルム紀という年代にあたる。ペルム紀は地球史上最大の大量絶滅で時代を終えた。それは連続した火山噴火の大量の粉塵によって太陽光が遮られたことによると考えられているが、これが9割の海洋種と7割の地上動物が死に絶えさせた。その後一億年の時間をかけ、生命は辛抱強く進化をとげ、ふたたび命あふれるジュラ紀、白亜紀を経て、現在の地表まで続いている。小鳥たちが翼を持ち、子育てのために移動をする手段を覚えたことも、悠久の歴史のなかで繰り返し淘汰され選択された結果である。掲句は渡ってきた小鳥たちを見上げ、踏みしめている土の深部に思いを馳せる作者が、地表から小鳥たちまでの空間を結びつける。地層を重ねる地球の上に立っている事実は、どこか地球のなりたちに加わっているような、むずむずとくすぐったい、雄大な心地となるのである。〈あぢさゐはすべて残像ではないか〉〈鳥あふぐごとナイターの観衆は〉『残像』(2011)所収。(土肥あき子)


September 2692011

 ほがらかな柿の木一本真昼かな

                           火箱ひろ

の木を見るのが好きだ。子供の頃から、周辺に柿の木が多かったからかもしれない。若葉の頃の柿の木は子供心にも美しいと感じたし、実をたわわにつけた秋の木にはとても豊饒感があって、見ているだけで幸せな気分になる。その柿の木に性格を読むとすれば、なるほど「ほがらか」がふさわしい。秋の青空を背景に立つ姿は、陽気そのものだ。いま暮らしている東京都下にも柿の木が点在していて、とくに中央線で立川を過ぎて八王子の辺りを通りかかると、古い家の庭に植えられている木が目立ってくる。自然と、心が弾んでくる。作者と同じように、しばらく学生時代に私も京都市北区で暮らしていたが、はてあのあたりに目立つ柿の木はあっただろうか。覚えていないが、もちろんこの木は京都のものでなくてもよいわけだ。「ほがらかな柿の木」が、快晴の空の下にしいんと立っている「真昼」である。句の奥のほうに、逆に人間の哀しみのようなものも滲んで見えてくる。『えんまさん』(2011)所収。(清水哲男)


September 2592011

 ねばりなき空に走るや秋の雲

                           内藤丈草

を読んでいると、たまに、ああこれは作り過ぎているなと感じることがあります。こんなに短い表現形式なのに、盛りだくさんに技巧を凝らすと、そういうことになるようです。所詮は作り物なのだから、作品の中から作意を完全に消し去ることはできません。だから凝った表現は、せめて一句に一か所にしてもらいたいものです。今日の句、凝っているのはもちろん「ねばりなき」のところです。それ以外には特段解説できるようなところはありません。さっぱりしています。このさっぱりが、なかなかすごいのです。雲が秋の空に抵抗を感じないように、句を作る所作にも、余分な抵抗はなさそうです。言葉は自然に生まれ、生まれたままの姿で句に置かれ、秋空を滑る雲のように、読者の目の中に滑り込んできます。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)




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