デモの参加者数。昔から主催者と警察が発表する数字に格段の差。(哲




2011N920句(前日までの二句を含む)

September 2092011

 いつもあなたに褒められたかつた初涼

                           阿部知代

山本紫黄の前書がある。「面」を主宰していた山本紫黄は〈新涼の水の重たき紙コップ〉〈日の丸は余白の旗や春の雪〉など、諧謔と抒情の匙加減の絶妙な作家であった。俳縁とは不思議な縁である。ともすれば、その人の年齢も生業も知らないまま、何十年と付き合いが続く。亡くなって初めて、ご家族の顔を知ることも少なくない。俳人の葬儀では、故人が句会で発していた名乗りを真似た声が、どこからともなく上がるという。おそらく家族や親戚も知らない、座を共有した者たちだけが知る故人の声である。それはまるで鳴き交わしあった群れが、去っていく仲間に送る最後の挨拶のようだと、今も深く印象に残っている。俳句は、おおかたが大人になってから出会うこともあり、褒められるという機会がなくなった頃、句会で「この句が好きだ」と臆面もなく他人から言われることの喜びを得られる場である。そして、誰にも振り向かれなくても心から慕う人だけに取られたときの充足はこのうえないものだ。師を失った弟子の慟哭は限りない。生前は言えなかったが、もう会えない聞いてもらえないからこそ吐露できる言葉がある。そして、これほど切ない恋句はないと気づかされる。「かいぶつ句集」(2011年9月・第60号特別記念号)所載。(土肥あき子)


September 1992011

 湯ざましのやうに過ぎけり敬老日

                           野崎宮子

ってつけたような国民の祝日は年に何日かあるが、敬老の日もその一つだ。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」という定義からして空々しい。シルバーシートなどと同じで、そこにそれがあるからそこではじめて老人を意識するなんてことは、心の付け焼き刃に過ぎない。そんな心根で「敬愛」されたって、誰がうれしいと思うだろうか。まさに味気ない「湯ざまし」を飲まされている感じなのだ。湯ざましとは、水の衛生事情が未だしだった時代の殺菌消毒するための手段であった。ただ水を沸かすということは、水の中に含まれている溶存酸素を無くしてしまうために、人体に必要なミネラルも消えてしまう。そればかりか、これを飲むと、逆に水は人体にあるミネラルなどを吸収排出してしまうので、身体には有害だという説もある。作者はそこまで意識してはいないと思うが、今日の私も湯ざましのように索漠たる思いで過ごすのだろうか。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


September 1892011

 秋暑く道に落せる聴診器

                           高橋馬相

の句が読者を振り向かせるかどうかは、道に落したものが何かにかかっています。当たり前なものではつまらないし、かといって「手術台の上のこうもり傘」ふうな、突拍子もないものでは、わざとらしさが残るだけです。おそらく、句を作っている時に、道に何を落したことにしようかなどと考え込んでいるようでは、期待できません。才を持っている人なら、何も考えずとも自然に思い浮かんでしまうものだし、その自然に思い浮かんだものが、ああなるほどと読者を納得させるものになってしまうのでしょう。ところでこの句、熱いアスファルトの上に落ちた聴診器が聴きとっているのは、去ろうとする夏の足音と考えても、よいのでしょうか。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社)所載。(松下育男)




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