シャープの電子書籍専用端末失敗。遊び心が無いと駄目だね。(哲




2011N917句(前日までの二句を含む)

September 1792011

 更待ちや階きしませて寝にのぼる

                           稲垣きくの

の間のない我が家では、壁のピクチャーレールに四季折々の軸を掛けている。今月は〈子規逝くや十七日の月明に〉(高濱虚子)。時代により虚子の文字はさまざまな趣を持つがこの軸は、子、十、月、のにじみと残りの九文字の繊細なかすれのバランスが美しい。その軸の前に芒を投げ入れ、朝な夕な月を見ていた一週間だった。今日は更待ち二十日月、月が欠けてゆくというのはこちらの勝手な見方ではあるが、なんとなくしみじみする。掲出句の家には床の間がありそうだ。二階の寝間への階段を一歩一歩上っている、ただそれだけのことながら、磨き込まれた階段の小さく軋む音が、深まる秋を感じさせる。ちなみに、今日の月の出は午後八時四分、歳時記にある亥の刻(午後十時)よりだいぶ早い。国立天文台に問い合わせてみると、月の動きはまことにデリケートなので計算どおりいかなかったり、年によって大きく変わるとのことだった。『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


September 1692011

 紫陽花に秋冷いたる信濃かな

                           杉田久女

本健吉が『現代俳句』の中で絶賛している。曰く、「「秋冷いたる」の音調は爽やかで快く、「信濃かな」の座五も磐石のように動かない。なぜ動かないか、理屈を言っても始まらぬ。とにかく微塵揺るぎもしないこの確かさは三嘆に価する。」健吉の評価に影響されずに読んでもまさに秀吟であることに異存はないが、今ならこんな句は絶対詠えないし、詠えても果たして評価を得るだろうかという思いが湧く。時代の推移による自然環境の変化という話ではない。今でもこの風景は信濃なら一般的。問題はふたつの季語が使われている点である。梅雨期の紫陽花という季語の本意に捉われてしまうと「秋冷」は絶対使えない。仮に句会でこの句を見たら本意を離れた特殊な設定として評価のうちに入れないような気がする。思えば当時はふたつの季語など俳句では一般的であった。一句に季語はひとつとうるさく言い出したのは戦後である。無季派との論議が盛んになったために季語の持つ有効性を強調する必要に迫られたことも影響しているのかもしれないが、早く効率的に俳句の技量を上げるという技術指導が流布したことが大きいのではないか。駄句をなるべく作らないという方法は同時に奇蹟のような秀句の誕生も阻害する。一句に季語はひとつという「約束」は効率以外のなにものでもないことはこういう句を見るとわかる。最近はそれを意識してか、一句に意図的に複数の季語を入れる試みをしている俳人もいる。そういう技術の披瀝を目的のあざとさが見えるとこれも不満。技術本の罪は大きい。『現代俳句』(1964)所収。(今井 聖)


September 1592011

 胃は此処に月は東京タワーの横

                           池田澄子

んだ空に煌々と月が光っている。ライトアップされた東京タワーの横にくっきりと見える満月は美しかろう。ただ、この句は景色がメインではない。胃が存在感を持って意識されるのは、胸やけを感じたり、食べ過ぎで胃が重かったりと、胃が不調の時。もやもやの気分で、ふっと見上げた視線の先に東京タワーと月が並んでいる、あらっ面白いわね。その瞬間の心のはずみが句に感じられる。どんより重い胃とすっきり輝く月の対比を効かせつつ、今、ここに在る自分の立ち位置からさらりと俳句に仕立てるのはこの作者ならではの技。ただその時の気持ちを対象にからませて述懐すれば句になるわけではない。この句では「胃は此処に」に対して「月は東京タワーの横(に)」の対句の構成に「横」の体言止めですぱっと切れを入れて俳句に仕立てている。短い俳句で自分の文体を作り出すのは至難の業ではあるが、どの句にも「イケダスミコ」と署名の入った独特の味わいが感じられる。「今年また生きて残暑を嘆き合う」「よし分かった君はつくつく法師である」『拝復』(2011)所収。(三宅やよい)




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