天気予報欄にやっと晴れマーク。天高しの季節が近づいてくる。(哲




2011ソスN9ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0692011

 早稲の香や雲また月を孕みたる

                           三森鉄治

方によっても異なるが、早稲の収穫は8月下旬。今年はほんの少しだが田植えの手伝いをさせていただいたこともあり、日本中のどこの田の様子もなにかと気になる。早苗が青田になり、稲になるまでの間に台風の通過や大雨のニュースがこんなにあるとは思わなかったので、早稲刈り取りの記事に胸をほっと撫で下ろす思いがした。月を隠しては明らかにする流れる雲を「月を孕む」と表現した掲句に、稲が幾多の障害をくぐりぬけ、色づき豊かに実る姿を重ねる。みごとに実った稲は甘い香りがするという。実は今まで稲が香るなど、感じたことも思ったこともなかった。今年はどこかで、実った田の香りを身体いっぱいに詰めてこようかと思う。田んぼも畑もずいぶんある場所で育ったはずなのだ。「あー、これなら知ってる」と身体が頷いてくれるかもしれない。〈まつさきに老いし鹿来て水飲めり〉〈それぞれの丈に山ある九月かな〉『栖雲』(2011)所収。(土肥あき子)


September 0592011

 うらがへる蝉に明日の天気かな

                           青山茂根

の死骸は、たいていが裏返っている。人間からすればまったくの無防備な体位に見えるが、それが自然体なのだろう。もっとも死に際しては無防備もへちまもない理屈だが、この句の蝉はまだ完全に死んではいないのかもしれない。つまり「うらがへる蝉」を「裏返りつつある蝉」と読むならば、この蝉はまだ生きていて瀕死の状態にあると解釈できるからだ。そんな状態の蝉に、作者は「明日の天気」の様子をかぶせるようにして見ている。すなわち、限りある命に限りない天気の移り行きを重ねて見ることで、そこに醸し出されてくる情景を凝視しているのである。あるときにはそれは世の無常と言われ、またあるときには自然の摂理などと言われたりもするわけだが、作者は一切そのような世俗的な感想を述べようとはしていない。命の瀬戸際など無関係に移り変わる空模様への予感を書くことで、命のはかなさではなく、落命を感傷的に捉えない視点を確立しようとしているように思える。この抒情は新しく、魅力的だ。明日、晴れるか。『BABYLON バビロン』(2011)所収。(清水哲男)


September 0492011

 僧朝顔幾死にかへる法の松

                           松尾芭蕉

週も芭蕉の句から。幾死は「いくし」、法は「のり」と読みます。誰の句だって、読みたいように読んでしまってよいわけです。しかし、この句はちょっと難しい。僧と朝顔は、死んではまた新しく生まれ出るものを象徴しています。朝顔は年々、それぞれの命を変えるものだし、僧の寿命は朝顔より長いものの、幾度も死んではまた生まれてくると考えれば、同じものと言えます。一方、松の方は、ずっと生き続けるものとして対比されています。法は仏法の法。宗教に携わる僧の命は絶えることがあっても、仏法は松のようにずっと生きているのだということなのでしょう。むろん松にも寿命はあるわけですが、ここは素直に読みましょう。それにしても年をとってくると、宇宙の大きさとか悠久の時の長さの中に、小さな自分をそっと置きたくなるのは、なぜでしょう。『芭蕉物語(上)』(1975・新潮社) 所載。(松下育男)




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