とうとう西瓜を食べなかった夏。海を一度も見なかった夏。(哲




2011ソスN8ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 3082011

 蟻地獄蟻を落して見届けず

                           延寿寺富美

地獄は薄羽蜉蝣(ウスバカゲロウ)の幼虫地面に作る漏斗状の巣穴である。ここに足を取られ落ちてきた蟻やだんご虫などの小さな昆虫を補食する。縁側の下などにきれいに並んで作られていたことはあっても、その仕掛けの一部始終を見届けたことはない。虫たちは流砂のようにすり鉢の奥へ吸い込まれてしまうのか、それとも落ちかかる虫に飛びかかって巣穴へと引き込むのだろうか。作者は蟻地獄の形状を見て、面白半分に手近の蟻を落してみたものの、すり鉢の斜面を四苦八苦する姿だけ見てその場を去ってしまった。蟻地獄という昆虫に餌を与えた、という行為が、一匹の蟻を地獄に落したと言い換えられるのである。そして、なおかつ見届けもせず立ち去るという仕打ちが一層残虐に響いてくる。しかし、取り立てて書いてみれば残酷めいて映るが、このような行為は過去を振り返れば誰でも経験があることではないのか。だからこそ、あえてその通りに詠んだことで、掲句に一種の爽快感すら覚えるのである。すり鉢の奥には一体どのような世界が広がっているか。かくして、地獄という名を負う虫は、薄羽蜉蝣へと羽化する。地獄から一転、はかなさ極まる名に変わったのちの命は、数時間から数日だという。〈ふるさとは南にありし天の川〉〈大旦神は海より来たりけり〉『大旦』(2011)所収。(土肥あき子)


August 2982011

 旋盤のこんなところに薔薇活けて

                           菖蒲あや

後まもなくの句。下町辺りの小さな町工場だろう。薄暗い作業場のなかでは旋盤がうなっており、何かの用事でそこに入った作者は、そんな場所に薔薇の花が活けられているのを見つけた。まさに「おや、こんなところに……」という驚きとともに、誰かは知らぬが花を飾った工員の優しい気持ちが思われて、瞬時幸福な気持ちになっている。この句は作者が所属した結社誌「若葉」の最初の入選句だ。ただし、師の富安風生は「こんなところに」を「かかるところに」と添削した上で掲載したのだった。ところが、作者はいかに師の添削といえども肯定しがたく、生涯「こんなところに」で押し通したというエピソードがある。ちょうどいま発売中の「俳句界」(2011年9月号)が菖蒲あやの小特集を組んでおり、そこに登場している論者三人が三人ともこの話を披露しているから、身内ではよほど有名なエピソードなのだろう。たしかに「かかるところに」としたのでは、句の骨格はしゃんとするけれど、下町らしい生活感覚が薄められてしまい、あまり面白くはない。『路地』(1967)所収。(清水哲男)


August 2882011

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき

                           松尾芭蕉

士山を見ようと楽しみにしてやってきたのに、いざ到着してみたら、霧が深くてなにも見えません。でもそんな日も考えようによっては面白いではないかと、そのような意味の句です。たしかに、生きていればそういうことって、幾度もあります。ディズニーランドに遊びに行こうという日に、朝から雨が激しく降っていたり、家族旅行の前日に、なぜか姉が熱を出して中止になってしまったり。楽しみにしていた分だけ、落胆の度合いも大きくなるというものです。それにしても、やはり芭蕉は普通ではないなと思うのです。この句を読んでいると、決して負け惜しみで言っているようには感じられません。「霧しぐれ」という言葉が、なによりも美しいし、霧の向こうにあるはずの富士の姿が、思いの中にくっきりと浮かんでくるようです。体験している自分に振り回されないって、なんて素敵な生き方だろうって、つくづく思うのです。『芭蕉物語(上)』(1975・新潮社) 所載。(松下育男)




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