「自由研究」が苦手だった。いまでも自由題の原稿は苦手だ。(哲




2011ソスN8ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2982011

 旋盤のこんなところに薔薇活けて

                           菖蒲あや

後まもなくの句。下町辺りの小さな町工場だろう。薄暗い作業場のなかでは旋盤がうなっており、何かの用事でそこに入った作者は、そんな場所に薔薇の花が活けられているのを見つけた。まさに「おや、こんなところに……」という驚きとともに、誰かは知らぬが花を飾った工員の優しい気持ちが思われて、瞬時幸福な気持ちになっている。この句は作者が所属した結社誌「若葉」の最初の入選句だ。ただし、師の富安風生は「こんなところに」を「かかるところに」と添削した上で掲載したのだった。ところが、作者はいかに師の添削といえども肯定しがたく、生涯「こんなところに」で押し通したというエピソードがある。ちょうどいま発売中の「俳句界」(2011年9月号)が菖蒲あやの小特集を組んでおり、そこに登場している論者三人が三人ともこの話を披露しているから、身内ではよほど有名なエピソードなのだろう。たしかに「かかるところに」としたのでは、句の骨格はしゃんとするけれど、下町らしい生活感覚が薄められてしまい、あまり面白くはない。『路地』(1967)所収。(清水哲男)


August 2882011

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき

                           松尾芭蕉

士山を見ようと楽しみにしてやってきたのに、いざ到着してみたら、霧が深くてなにも見えません。でもそんな日も考えようによっては面白いではないかと、そのような意味の句です。たしかに、生きていればそういうことって、幾度もあります。ディズニーランドに遊びに行こうという日に、朝から雨が激しく降っていたり、家族旅行の前日に、なぜか姉が熱を出して中止になってしまったり。楽しみにしていた分だけ、落胆の度合いも大きくなるというものです。それにしても、やはり芭蕉は普通ではないなと思うのです。この句を読んでいると、決して負け惜しみで言っているようには感じられません。「霧しぐれ」という言葉が、なによりも美しいし、霧の向こうにあるはずの富士の姿が、思いの中にくっきりと浮かんでくるようです。体験している自分に振り回されないって、なんて素敵な生き方だろうって、つくづく思うのです。『芭蕉物語(上)』(1975・新潮社) 所載。(松下育男)


August 2782011

 古稀の杖つけば新涼集まれる

                           竹下陶子

週末、一雨に新涼を実感した。週が明けてからは再び残暑の毎日だが、法師蝉が夏休みの終わりを告げている。掲出句、作者にとっては、新涼の風を感じるといった、ふとした感覚ではなく、新涼がまさに集まってきたのだ。この句の二年前の作に〈   新涼やギプス軽き日重たき日〉とあり、リハビリを経てこの年は暑い間は大事をとって家居されていたのだろう。杖をついての外出も初めてか、そこにはためらいもあったに違いない。人生七十古来稀、まあ致し方なしというところか、と外に一歩を踏み出した時の作者の静かな中にも深い感動が、新涼の風と共に伝わってくる。『竹下陶子句集』(2011)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます