我が家の周辺では秋の虫が鳴きはじめました。昼間は法師ゼミも。(哲




2011ソスN8ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2582011

 朽ち果てしその蜩の寺を継ぐ

                           佐山哲郎

がカトリックだった私は寺にはまったく縁がない。それ以上に生まれ育った神戸という街そのものに寺が少なかったように思う。そのせいか、東京の谷中から上野、浅草あたりを歩いたとき、その寺の多さに驚いた。それぞれの寺には卒塔婆の乱立する古い墓地があり、寺を継ぐというのは何基あるかわからない墓の管理とその檀家の法事の一切を引き受けることと思えば気が遠くなる。考えれば武田泰淳から永六輔、植木等まで寺の息子というのはけっこう多いようだ。「朽ち果てし」という上五と蜩の声はぴったりの侘び具合であるが、「その日暮らし」という語も仕掛けられているのは言うまでもない。題名そのものも人を食った味わいがあるが、少しうらぶれた下町の情緒と、洒落のめしたナンセンスが混然一体となった句集である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)


August 2482011

 うちの子でない子がいてる昼寝覚め

                           桂 米朝

寝から覚めてあたりを見まわすと、うちの子のなかによその子が混ざって寝ていたという驚き。昔はよくそんなことがありました。私も子供のころ友だちの家に行き、遊びくたびれていつの間にか昼寝をした、そんな経験がある。蜩の声でようやく寝覚めて「エッ!」と面喰らったことが一度ならずあった。その家で、平気で昼食や夕飯をご馳走になったりもした。「かまへん。これからうちの子と夕飯食べたら帰しますさかいに」……米朝が言う「うちの子」だからといって、幼い日の彼の息子(現・桂米團治)と限定して考える必要はあるまい。上方弁の「いてる」にほほえましい驚きが感じられて愉快である。その子はスイカでもご馳走になって、けろりとして家へ帰って行くのかもしれない。去る七月二十一日から八月二日まで、新宿の紀伊國屋画廊で「桂米朝展」が開催された。上方落語の中興に多大な尽力をしてきた。貴重な上方演芸の資料は見応えがあった。期間中に、紀伊國屋ホールでは米朝特選落語会などが開催された。そのうちの「東京やなぎ句会」メンバー(米朝もメンバー)による「米朝よもやま噺」のパートで、加藤武が好きな句として掲句をあげていた。米朝には他に「春の雪誰かに電話したくなり」という佳句がある。米朝の俳号は八十八。来年いよいよ数えで八十八歳の米寿を迎える。『楽し句も、苦し句もあり、五・七・五』(2011)所載。(八木忠栄)


August 2382011

 いくたびも手紙は読まれ天の川

                           中西夕紀

の川と並び銀漢、銀砂子が秋季に置かれているのは、秋の空気がもっとも星を美しく見せるという理由からである。とはいえ、連歌の時代から天の川は七夕との関係で詠まれてきた。掲句も何度も開かれる手紙に、天の川を斡旋したことで七夕を匂わせ、恋文を予感させ、また上五の「いくたび」が、単に何回もというよりずっと、女性らしい丁寧な所作を感じさせる。今年の旧暦の七夕は8月6日だった。新暦の7月では梅雨さなかで、旧暦になると台風のおそれがあるという、七夕はまことに雨に降られやすい時期にあたる。一年にたった一度の逢瀬もままならないふたりの間に大きく広がる天の川が、縷々と書き綴られた巻紙にも見え、会えない日々を埋めているように思えてくる。今夜の月齢は23.3。欠けゆく月に星の美しさは一層際立ち、夜空にきらめくことだろう。〈貝殻の別れつぱなし春の暮〉〈白魚の雪の匂ひを掬ひけり〉『朝涼』(2011)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます