寝たり起きたり。冷房無しの部屋に一日中いると、そんな状態に。(哲




2011ソスN8ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1982011

 見回して雲のありたる秋の晴

                           深見けん二

きどき句会で、研究会と称して「この句が無記名のまま句会に出たら、あなたは採りますか」という試みをやっている。いわゆる名句として喧伝されている句が対象だ。一度先入観を持ってしまうとなかなか作者名と作品を切り離して評価するのは大変だが、それをやってみようというわけである。自分の先入観を一度リセットしてほんとうにあなたにとってその句は魅力的な句なのか、その理由は?ということを問うていくと、鑑賞も評価も評論家やいわゆる大家などの権威に引きずられていることがわかる。この句、出席した句会に出たら僕は間違いなく採る。その理由は第一に、秋晴というのは一点の雲もなく、という本意に抗って雲のある秋晴が写生されている点。見た事実が本意を超えているのだ。第二に「見回して」に「自分」が出ている点。見回す間合いは気持の余裕と肉体の老いの所産だ。それは作者名がわかっているからそういう鑑賞が出来るのだという人がいるかもしれない。それは間違い。蓋を開けてみたらこの句が健康な青年だったという可能性はありえない。「健康な」という但し書きをつけたのは、若年であってもそういう気持の余裕と肉体の衰えを実感せざるを得ない境遇に置かれた場合は別であるという意味。「見回す」は自分と直接的に結びついた言葉である。『蝶に会ふ』(2009)所収。(今井 聖)


August 1882011

 へちまぞなもし夜濯の頭に触れて

                           西野文代

のカーテンと称して、陽のあたるベランダにゴーヤの葉を茂らせる今年の流行にのって、うちも育ててみた。どうにかいくつかぶらぶらと実を結び、毎日大きくなるのを楽しみにしていた。日除けと言えば糸瓜の棚もその一種だろう。「糸瓜」と聞けば子規を連想するが、「へちまぞなもし」は松山言葉。夜濯のものを干した頭に棚の糸瓜がごつんとあたる。「あいた」と言う代わりにこんなユーモラスな言葉が口をついて出てくれば上等だ。へちまがぼそっと呟いていると考えても面白い。野菜や果物を毎日大切に育てていると彼らの声が聞こえるという話を聞いたことがあるが、ゴーヤの声が響いてこない私はまだまだってことだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


August 1782011

 夕顔やろじそれぞれの物がたり

                           小沢昭一

方に花が開いて朝にはしぼむところから、夕顔の名前がある。蝉も鳴きやみ、いくぶん涼しくなり、町内も静かになった頃あいに、夕顔の白い花が路地に咲きはじめる。さりげない路地それぞれに、さりげなく咲きだす夕顔の花。さりげなく咲く花を見過ごすことなく、そこに「物がたり」を読みとろうとしたところに、小沢昭一風のしみじみとしたドラマが仄見えてくるようだ。ありふれた路地にも、生まれては消えて行ったドラマが、いくつかあったにちがいない。「源氏物語」の夕顔を想起する人もあるだろう。夕顔の実は瓢箪。長瓢箪を昔は家族でよく食べた。鯨汁に入れて夏のスタミナ源と言われ、結構おいしかった。母は干瓢も作った。昭一は著作のなかで「横道、裏道、路地、脇道、迷路に入って、あっちに行き、こっちに行き、うろうろしてきたのが僕の道」と述懐しているけれど、掲句の「ろじ」には、じつは「小沢昭一の物がたり」が諸々こめられているのかもしれない。とにかく多才な人。掲句は句碑にも刻まれている。昭一は周知のように「東京やなぎ句会」のメンバーだが、俳句については「焼き鳥にタレを付けるように、仕事で疲れた心にウルオイを与えてくれる」と語る。他に「もう余録どうでもいいぜ法師蝉」という句もある。蕪村の句に「夕顔や早く蚊帳つる京の家」がある。『思えばいとしや“出たとこ勝負”』(2011)所載。(八木忠栄)




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