進行中。アメリカ経済停滞、イギリス暴動、そして日本原発事故。(哲




2011ソスN8ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1182011

 口開けて金魚のやうな浴衣の子

                           三吉みどり

んて可愛いい句だろう。盆踊り、夜店、夏祭り、子供たちにとって夏は特別な季節。ただでさえウキウキするのに糊の効いた浴衣を着せてもらってますます楽しみごとに期待が膨らむ。親に連れられた小さな子供が櫓の太鼓に見とれているのか、夜店の賑わいに心を奪われているのか。半開きの口元に何かに夢中になっている気持ちが表れている。水面に浮きあがってくる金魚のよう。浴衣にしめる赤やピンクのふわふわの兵児帯がゆらゆら揺れる金魚の尾鰭に思える。「やうな」という直喩は異質な物と物とに通路を開く働きをする。これから金魚を見れば口を開けて見上げる浴衣の子を思い、浴衣の子を見れば水槽に浮かびあがってくる金魚を想像するかもしれない。『花の雨』(2011)所収。(三宅やよい)


August 1082011

 ワイシャツは白くサイダー溢るゝ卓

                           三島由紀夫

イシャツ、サイダー、卓がならべられた、別段むずかしい俳句ではない。意外や、この作家もかつて俳句を作っていたという事実。詩も作った。ワイシャツの白さと、溢れるサイダーの泡の白さが重ねられて、三島らしい清潔感に着目した句である。学習院の初等科に入った六歳のときから俳句を作りはじめ、中等科になって一段と熱が入ったという。同級生の波多野爽波と一緒に句会に顔を出したり、吟行に出かけたりしたらしい。掲句はその当時のものと思われる。他に「古き家の柱の色や秋の風」という句もある。しかし、間もなく爽波の俳句の才能に圧倒されて、自分は小説のほうへ移った。現在残されているいちばん古い句に「アキノカゼ木ノハガチルヨ山ノウエ」という可愛い句がある。俳句について、三島は後年次のように書いていた。「ただの手なぐさみの俳句では、いつまでたっても素人の遊びにすぎず……」。若くしてのどかな句会に対して疑問も感じていたようである。一九七〇年に自決したときの辞世の歌の一首に「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」がある。この歌の評価は低かったという記憶がある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


August 0982011

 八月の赤子はいまも宙を蹴る

                           宇多喜代子

1945年の本日午前11時2分、長崎市に原爆が投下された。その瞬間赤子は永遠に赤子のまま、時間は凍りついた。掲句の赤子が象徴しているものは、日常が寸断された世界である。笑おうとした顔、なにげなく見あげた時計、蝉の背に慎重にかざす捕虫網。普段通りの仕草の途中で、唐突に命がなくなってしまったとき、その先に続くはずだった動作は一体どこへ行ってしまうのだろう。彼らは、永遠に笑い、時計を見やり、蝉を捕り続けているのではないのか。その途方に暮れた魂を思うとき、わたしたちは今も頭を垂れ、醜い過ちを思い、静かに祈るしかないのだろう。『記憶』(2011)所収。(土肥あき子)




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