August 012011
うなだれて八月がくる広島に
小山一人静
月名を擬人化した句はめずらしいのではなかろうか。今年もまた「八月」がやってきた。うなだれて「広島」に来たのは、むろんこの月が原爆投下日を含んでいるからだ。原爆さえ落とされていなかったなら、広島の八月の表情はずいぶんと変わっていただろうに。「うなだれて」いると感じるのは、もとより作者自身の気持ちがそうだからなのだが、これを「八月」自身の気持ちとして捉えてみると、被爆という現実が個人の思いをはるかに超えたところに定着していることがわかる。否応なく、八月は被爆の無残を告げ、人間の無力感を増幅させる。もうあんなことは忘れたいのにと思っても、八月がそれを許さない。「うなだれ」ながらも、告げるべきことは告げなければと、八月は今年も巡ってきたのだ。来年からの「福島」にも「三月」は同じようにうなだれてやってくるのだろう。未来永劫、これら「八月」や「三月」が颯爽とした顔つきでやってくることはあるまい。私たち人間は、いつまで愚かでありつづけるのか。『未来図歳時記』(2009)所収。(清水哲男)
July 312011
昼寝よりさめて寝ている者を見る
鈴木六林男
この句はいいな、と感じるときには、二種類あります。句のほうに向かって、自分の感受性がぐいぐい引きこまれてしまう場合と、反対に句のほうがこちらにやってきてくれて、自分の感覚に寄り添ってくれる場合です。自分にはない新鮮な美しさをもたらしてくれるのが前者。自分の中の懐かしさや優しさを思い出させてくれるのが、後者です。この句に惹かれたのは、後者の感じ方によります。座敷にゴロゴロと、誰が先ともなく、いつのまにか眠ってしまい、ふと目が覚めると、まだ他の人は眠っていたという状況のようです。つまりは思いがけなくも、いつもそばにいる人の寝顔をじっくりと見ることになるわけです。ああ、たしかにこういう経験って、幾度もしたことがあるなと、思い出し始めます。家族みんなでぐっすり眠っていたこともあるし、あるいは高校生だった頃の夏に、臨海学校の大きな畳敷きの部屋で、たくさんのクラスメートと眠っていたこともありました。もちろん外では、蝉がやかましいばかりに鳴いていました。長く生きていると、ひとつの句から、いくつもの大切な情景が思い出されてきて、そのたびに幸せな記憶に漂ってしまいます。『新日本大歳時記』(2000・講談社) 所載。(松下育男)
July 302011
われに鳴く四方の蝉なりしづかなり
長谷川素逝
鳴けば鳴いたでやかましい蝉だが、今年のようになかなか鳴かないとなんとなく物足りない。家居の初蝉は今週火曜日、かすかな朝のミンミン蝉だったが、その前に出かけた古寺の境内で聞いたのが今年の初蝉。山裾にあるその寺の蝉の声は、蝉時雨、というほどではなく、空から降りそそいで寺全体を包んでいた。じっとその声を見上げていると、あらためて山寺の境内の広さと涼しさが感じられ、しばらくそこに佇んでいたが、掲出句はその時聞いた遠い蝉声を思い出させる。蝉の存在を親しく感じることで自分の心も自然にとけこんで穏やかになる、そんな印象の一句である。『新日本大歳時記 夏』(2000・講談社)所載。(今井肖子)
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