夜、蝉が鳴いた。昼間は鳴かないくせに、蝉も夜型化してきたか。(哲




2011ソスN7ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1572011

 蝉むせぶやもとより目鼻なき地蔵

                           古沢太穂

語以上の結びつきが習慣的に固定し、ある決まった意味を表すものを成句という。「広辞苑」。この説明の前半部分「習慣的に固定した二語以上の結びつき」もまた詩としては言葉の緊張の不足する要素となりえよう。まして短詩形に於いては致命的になりかねない。川流る、雪降れり、蝶舞へり。季語とて同じ。揚雲雀、緋のカンナなどはどこか最初から絵柄の類型化を志しているかのように思える。蝉につなげて、むせぶは成句を拒否する姿勢がありあり。その二語が成功しているかどうかは二の次。類型を拒否する態度からすべてが始まるのではないか。「もとより目鼻なき地蔵」も、風蝕、雨蝕がすすんで石に還りゆく仏だの消えゆく石の文字だのの定番を裏切っている。もとから目鼻など無いのだ。類型拒否というのは古い型を嫌うということ。それは詩形変革、俳句変革、ひいては自己変革への一歩だ。『捲かるる鴎』(1983)所収。(今井 聖)


July 1472011

 ともだちの流れてこないプールかな

                           宮本佳世乃

型のレジャープールにはウォータースライダーがあったり、波の打ち寄せるプールがあったり、流れるプールが中州をぐるりと取り巻いていたりする。流れる方向は一定で、ビニールボートや浮き輪につかまって流れていると自分で泳がないでもくるくる回り続けることができる。流れにとどまって待っているのに後ろからくるはずの友達が「流れてこない」。その表現に少し不吉でかすかな死の匂いが感じられるのは水の流れと「彼岸」が結びつくからか。まぶしい夏の日差しと人々の歓声に取り巻かれつつ友達を待つ時間が長く感じられる。きっと友達は「ごめん、ごめん」と言いながら全然違う方向から歩いてきて、その瞬間に不安な気持ちも消えてしまうだろう。そんなささいな出来事も俳句の言葉に書き留めると、自分にも覚えのある時間が蘇り、ことさらに意味を持って思い出されたりするのだ。『きざし』(2010)所載。(三宅やよい)


July 1372011

 夕焼の樹々まっくろく蝉鳴けり

                           高垣憲正

あかと西空をみごとに染めあげている夕焼を遠景にして、今日を限り(?)と蝉が激しく鳴いている。燃えるように広がる夕焼の赤に対して、「まっくろ」を対置した大胆さには舌を巻かざるを得ない。実際に蝉の鳴く声が黒いわけではない。蝉が樹に蝟集しているのであろう。そのびっしり寄り集まっている様子から、鳴き声までも黒々と感受されていて穏やかではない。「黒々」ではなく「まっくろ」という衝撃。私は十数年前に広島の真昼の公園で、樹の幹に蝉がまっくろに蝟集して鳴いている場面に出くわしたことがある。あの時の無気味な光景は今も忘れることができない。いちばん早く鳴きはじめる松蝉(春蝉)にはじまって、にいにい蝉、あぶら蝉、くま蝉……とつづく。雌の蝉は鳴かないから唖蝉。高橋睦郎が直近で「雌(め)の黙(もだ)のひたと雄蝉の歌立たす」他蝉十句を発表している。(「澤」7月号)詩人である憲正は句集のあとがきで「若い日の俳句の勉強が、ぼくの現在の詩の手法に、決定的な影響を及ぼしていることにも、あらためて驚かされる」と記している。過半の句が高校生のころのものだが、いずれもシャープである。他に「蟹あまたおのが穴もち夏天もつ」など。『靴の紐』(1976)所収。(八木忠栄)




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