熱中症など関係ないと思ってきたが加齢とともに自覚が出てきた。(哲




2011ソスN6ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2662011

 悲しみの席にビールのある事も

                           岡林知世子

句の世界とは違って、現代詩には、吟行をするということがありません。詩というものは、若いころからずっと一人で、隠れるようにして書き続けるものです。だから著名な詩人の名前を知ってはいても、実際に会う機会などめったにありません。僕が二十代後半の頃、ということはもう三十年以上も昔のこと。詩の賞の、誰かの受賞式の帰りでもあったのか、夜遅く、新宿の広い喫茶店に詩人たちが集団で入ってゆきました。僕のいたテーブル席には、同世代の若い詩人たちがいて、話すこともなく静かにコーヒーを飲んでいました。そのうちに一人が、遠くの席を指さして、「あそこに、清水昶がいるよ」と言いました。「えっ」と、僕は思って、薄暗い喫茶店で、かなり距離もあり、その姿ははっきりとは見えませんでしたが、それでも当時、夢中になって読んでいた詩人がそこに本当にいるのだということに、胸が震えていました。幾度読んでも飽きることのない喩の力、というものが確かにあるのだと、教えてくれた詩人でした。「悲しみの席」とは、なんとつらい日本語かと、思わずにはいられません。『新日本大歳時記』(2000・講談社) 所載。(松下育男)


June 2562011

 クーラーのきいて夜空のやうな服

                           飯田 晴

の中の風の道を、朝晩いい風がぬけていたのがぴたりと止んでしまい、まだ六月というのにここにきてさすがに暑い。もともとクーラーなど無かったわけだし、扇風機と水風呂でひと夏乗り切れるのでは、と思っていたが、ここへきてやや弱気になりかけている。そんな自然のものではない冷房、クーラー、を詠んで、詩的で美しいなあ、と思う句にはあまり出会ったことがないが、この句は余韻のある詩であり、美しい。生き返るようなクーラーの涼しさと、黒いドレスの輝き。夜空のような服はきらきらと見る人を惹きつけ、着ている人を引き立て、夜半の夏を涼やかに華やかに彩っている。『たんぽぽ生活』(2010)所収。(今井肖子)


June 2462011

 いくたびか馬の目覚める夏野かな

                           福田甲子雄

の馬、どういう状態にいるのか。行軍の記憶のようでもあり、旅のイメージも感じられるし、夏野を前景として厩の中にいる馬の様子のようでもある。目覚めという言葉から加藤楸邨の代表句で墓碑にも刻まれている「落葉松はいつ目覚めても雪降りをり」が浮かぶ。手術後の絶対安静の状態で見た夢ともうつつともつかない風景というのが定説だが、僕には墓に刻まれていることもあって、楸邨が墓の中で眠っては目覚めの繰り返しを永遠に重ねているようにも思える。そういう目覚めを考えていたら、甲子雄さんの句は人に尽くしたあげく野に逝った無数の馬の霊に思えてきた。馬頭観世音の句だ。『金子兜太編・現代の俳人101』(2004)所載。(今井 聖)




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