雨模様がつづく。四季の間に「雨季」を入れるべきだという意見。(哲




2011ソスN6ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1862011

 紫陽花に置いたる五指の沈みけり

                           川崎展宏

梅雨の年は紫陽花が気の毒なほどちぢれてしまうことがある。雨の多い今年は形よく色もみずみずしく、特に水をたたえたような深い青が際立っている。遠目にはこんもりと球のように見える紫陽花。作者が近づくとちょうど目の高さほどの木に、大ぶりの毬がたくさん揺れている。どこか親しさのあるその毬にそっと触れると、ただ包みこんだだけで、細かな花の隙間に五指が沈む。わずかな驚きと少し濡れたかもしれない指先に残る感触は、目の前の紫陽花をより生き生きと感じさせている。『花の大歳時記』(1990・角川書店)所載。(今井肖子)


June 1762011

 春水をたたけばいたく窪むなり

                           高浜虚子

の句とか同じ虚子の「大根を水くしやくしやにして洗ふ」などの機智はまさに今流行のそれ。虚子信奉の現代の「若手」が好んで用いる傾向である。窪むはずもない液体が窪んでいるという、液体を個体のように言う見立て。くしゃくしゃになるはずもない水をそう見立てる同類の機智。同じような仕立ての句を見たら、あ、この発想は虚子パターンだろと言ってやるのだ。虚子の発想の範囲を学びその埒の中で作り、自作の典拠としての虚子的なるものの数を誇る。そのままだと俳句は永遠に虚子から出られない。バイブルの方には責任はない。学ぶ側の志の問題だ。『五百五十句』(1943)所収。(今井 聖)


June 1662011

 四国とは背伸びの子象風すずし

                           橋本 直

本地図の四国のかたちをじっと見る。細長く伸びる佐田岬が子象の鼻だとすれば、三角にとんがった足摺岬と室戸岬が前脚と後脚にあたるのだろうか。物を別なものになぞらえる見立ては俳句ではあまり好かれないようだ。「四国とは」の「とは」も説明的だと言われそうだ。だけど見立ては決まりきった見方を切り崩し新鮮な側面を描き出す手法でもある。この句の場合、「背伸びの子象」という表現に託された四国は愛らしく微笑ましい。せいいっぱい身体を伸ばす子象に吹きわたる風。この句を読んで四国を思うと水色の海に囲まれた島が夢ある土地に思えてくる。『水の星』(2011)所載。(三宅やよい)




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