コンビニ弁当の味は例外なく濃い。若者向きなんだろうなあ。(哲




2011ソスN6ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1462011

 眺めよき死地から死地へ青嵐

                           宇多喜代子

地とは戦場かもしれず、また天災によって傷つけられた土地かもしれない。「眺めよき」とは甚だ物騒な表現だが、一切が空(くう)となった地をどのように表現しようかという苦悩が作者のなかにはあったはずだ。その思いが胸に巣食ったまま、本書のあとがきにたどりつけば、そこには「振り返れば一句の背後、消した百語千語や、時のひろがり、おもいの深みが蘇えってきます」と書かれていた。そこであらためて掲句を振り返れば、書かれては消された幾百の文字が、作者の祈りとなって渦巻きながらにじみ出ているように思えてきた。今はここに残された17音に、ただただ目を凝らし、人間と自然の姿に思いを馳せる。〈八月の赤子はいまも宙を蹴る〉〈かぶとむし地球を損なわずに歩く〉『記憶』(2011)所収。(土肥あき子)


June 1362011

 じやがいもの咲いて讀本文字大き

                           山口昭男

者は昭和三十年生まれ。したがって戦前の教科書である「讀本」を、実際に教室で勉強したわけではない。資料調べなどのために、図書館ででも閲覧したのだろうか。書かれているように、戦前の初等科の國語讀本は文字が大きく、「ハナ ハト マメ マス」などと印刷されていた。ちなみに、私が習った国民学校一年生の讀本は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」ではじまっていた。ずいぶん大きな文字だったんだな。と作者は感じ入っているうちに、だんだん往時の子供たちがそれを声をだして読んでいる光景に思いが至り、なんだか自分がその子たちのひとりになったような気がしてきた。折りから、窓外は馬鈴薯の花の季節だ。薄紫の花々が遠くに霞むように咲いており、元気に讀本を読む自分の姿が懐かしく思い出されてくるようである。実際に体験したこともない世界をこのように懐かしく思うことは、誰にでも起きることだろう。文字の力、文学の力とは、こういうものである。『讀本』(2011)所収。(清水哲男)


June 1262011

 夏服や弟といふ愚かもの

                           石塚友二

たしには4人の姉がいました。親戚の集まりがある時には「松下の家は、女はしっかりしているが、男は頼りない」と言われてきました。子供の頃はともかく、いったんそのような印象がついてしまうと、こちらが老齢になっても、ずっと同じことを言われ続けています。おそらくこの句に出てくる弟も、世間から見たら特別に愚かだというわけでもないのでしょう。ただ、兄や姉から見た弟というものは、とかく愚かに見えてしまうと解釈した方がよいようです。それでも「愚か者」の言葉に含まれた愛情は、容易に感じることができます。男の夏服と言えば、せいぜい長袖が半袖のシャツに変るくらいで、季節が変わったからといって、さしてぱっとしません。無防備に半袖から伸びた腕も、頼りなげに見えている要因のひとつなのかもしれません。兄や姉という存在の深い愛情が感じられて、それからちょっとおかしくて、こういう句、とても好きです。『新日本大歳時記』(2000・講談社) 所載。(松下育男)




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