樹木墓を考えているが、どこも遠いなあ。当たり前だけど。(哲




2011ソスN6ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0862011

 ほつれ毛に遊ぶ風あり青すだれ

                           竹久夢二

多き画家、独特の美人画で誰もが知っている夢二ならではの写生句。青すだれ越しの涼風が美人さんのほつれ毛にたわむれ、ひたいやうなじにもまとわりついている。いや、それは風のみならず、じつは美人さんを見つめる夢二の視線が、ほつれ毛にたわむれ遊んでいるとも言えよう。「ほつれ毛」「風」「青すだれ」――それらのデリケートな重なり具合が計算されている。「青すだれ」の語感が涼しさをたっぷりと放っている。葭やビニールなどさまざまな材料で編んだすだれがあるけれど、青竹で編んだ青すだれこそ、暑い夏なおいちばん涼しそうに感じられる。すだれはクーラーなどなかった時代の夏の風情を、日本的に演出した視覚的な家具でもあった。夢二は若い頃には社会主義青年として、平民社の荒畑寒村らと共同自炊生活を送ったこともあり、絵のほかに無季俳句の連作を発表したこともあった。いかにも夢二らしい「襟足の黒子(ほくろ)あやふし朧月」という句や、「味噌をする音に秋立つ宇治の寺」という本格的な句もある。『夢二句集』(1994)所収。(八木忠栄)


June 0762011

 石棺に窓なかりけり蟇

                           神野紗希

になると毎年律儀にやってくる生きものに、庭の蟇と、玄関の守宮がいる。蟇は数年前からひと回り小さい新顔が加わった。門から続く踏み石に気に入りがあるらしく、それぞれ真ん中に堂々と居座っているため、人間の方が遠慮して踏み石をよけて行き来する。掲句では、石棺のなかの闇と、そこに詰められた空気の湿り気をじゅうぶんに伝えたのち、地上に八方睨みの態で仕えるがごとき蟇の姿が、哀愁を帯びた滑稽さで浮かびあがる。それは、わが庭の踏み石までもまるで石棺の蓋のように思わせ、頑として動かぬ蟇が奇妙な把手に見えてくる。地中からひしひしと這いのぼる夏を、大きな蟇が「まだまだ」、小さな蟇も「まだまだ」と息を合わせて押しとどめているようだ。このところ「石棺」「水棺」といえば、原子炉を封じ込める建造物として頻繁に登場する。どこか荒くれた神に鎮まっていただくようなその語感に、うさん臭さを感じるのはわたしだけではないだろう。古今東西、棺は常に破られ、出てくるのは不死身の化け物なのである。「俳句」(2011年6月号)所載。(土肥あき子)


June 0662011

 草の雨葵祭と過ぎてゆき

                           清水 昶

が詩をふっつりと書かなくなり、俳句に熱中しはじめてから十数年は経っただろうか。最近はその俳句もほとんど書かなくなっていたが、ひところは自分の掲示板に「俳句航海日誌」と称して、盛んに載せていた。昶俳句の特徴はいわば唯我独尊流で、読者にわかろうがわかるまいがオカマイなしで、ひたすら昶ワールドを提出することだけに執していた。総じて道具立てがごたごたしており、およそ省略的手法とは無縁であった。そんな句のなかにあって、掲句は普通に俳句になっていて、その意味では珍しい。古風な抒情の世界でもあるけれど、かつて京都に暮らした実感がよくこめられてある。梅雨期はとくにそうだが、京都の雨はまさに「草の雨」と言うに似つかわしい。そのか細い雨が葵祭の行列が過ぎてゆくように、いつしか草の葉に露を残して去っていってしまう。その寂しいようないとおしいような作者の思いは、また読者のそれでもあるだろう。この句は2001年5月30日付の掲示板に書かれたものだ。それからぴったり十年後の当日に、昶はふっつりと世を去っていった。単なる偶然でしかないけれど、兄としてはこの偶然までもが心に沁みる。(清水哲男)




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