政界の足の引っ張り合いは醜い。彼らを選んだ私たちはみじめ。(哲




2011ソスN6ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0462011

 金魚の尾ふはふはと今日振り返る

                           櫻井搏道

はふはしているのは、金魚の尾なのか、それを見ている自分なのか、過ぎてしまった今日一日なのか。水面には、ため息のように泡がひとつまたひとつ。水中には金魚の赤い尾ひれが漂っている。ゆらゆら、ひらひら、でなく、ふはふは。その一語がどこにかかるのか、句がどこで切れているのか、そんなことを考えるより先に、なつかしい夏の夕暮れ時をなんとなく思い出させてくれる。なんとなくといえば、この句は『鳥獣虫魚歳時記』(2000・朝日新聞社)から引いたのだが、以前も同じように別の歳時記を見ていて、同じ作者の句を選び鑑賞させていただいたことがあった。なんとなく惹かれる作家なのだと思う。(今井肖子)


June 0362011

 五十なほ待つ心あり髪洗ふ

                           大石悦子

ほと言っているのだからこれまでもずっと待っていた。五十になった今も待っている。何を待っているのかと言うと、これは異性。作者は女性だから男を待っている。髪洗ふという動作が「女」を強調していて、その強調の意図は「男」を待つということに繋がる。抽象的な理想的な男、つまり白馬の騎士を待っているのだ。女は待ち、男は行く性であると言ってしまっていいのだろうか。女はいつも白馬の騎士を待っていると重ねて断じてしまっていいのだろうか。異論のある向きもあろう。しかしこの句はそういう一般的な概念の上に乗っている。俳句とはそういう通念から離れて詠うものではないと主張しているのだ。『花神俳句館・大石悦子』(1999)所収。(今井 聖)


June 0262011

 あめんぼう吹いて五センチほど流す

                           関根誠子

の沼や水たまりの表面にふわふわと浮くように小さなあめんぼうがいる。よく見ればしっかりと足をふんばった水面にちいさな窪みなどできている。けなげな姿ではあるが、愛嬌があるので、ちょっとかまってみたくなる。ふうっと息をふきかけるとそのままの体勢でつつつつつ、と水面を後ずさりしてゆく。あめんぼうもさぞ面喰ったことだろう。「水馬水に跳ねて水鉄の如し」村上鬼城の句などは水に鋼の固さを感じさせることであめんぼうのかそけき動きを力強く描き出しているが、この句ではあめんぼうへ息を吹きかける子供っぽい仕草とあめんぼうの愛嬌ある反応が句の面白さを引き出している。今度あめんぼうを見かけたらふっと吹いてみよう。何センチ流れるかな。『浮力』(2011)所収。(三宅やよい)




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