当人はまだ生きているつもりかもしれない。今日午後より家族葬。(哲




2011ソスN6ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0262011

 あめんぼう吹いて五センチほど流す

                           関根誠子

の沼や水たまりの表面にふわふわと浮くように小さなあめんぼうがいる。よく見ればしっかりと足をふんばった水面にちいさな窪みなどできている。けなげな姿ではあるが、愛嬌があるので、ちょっとかまってみたくなる。ふうっと息をふきかけるとそのままの体勢でつつつつつ、と水面を後ずさりしてゆく。あめんぼうもさぞ面喰ったことだろう。「水馬水に跳ねて水鉄の如し」村上鬼城の句などは水に鋼の固さを感じさせることであめんぼうのかそけき動きを力強く描き出しているが、この句ではあめんぼうへ息を吹きかける子供っぽい仕草とあめんぼうの愛嬌ある反応が句の面白さを引き出している。今度あめんぼうを見かけたらふっと吹いてみよう。何センチ流れるかな。『浮力』(2011)所収。(三宅やよい)


June 0162011

 子の背伸び出してはしまう更衣

                           内田春菊

どもの成長は早い。タケノコのようにグングン背が伸びる。去年着ていた衣服が、今年はもう着られなくなってしまうなんてことはもちろんだが、去年は大きすぎた衣服が今年は小さすぎる、などということはざらにある。母親はあれこれと出してみるけれど、子どもの背はどんどん先へ先へと伸びている。夏の衣服を出したりしまったりして「あら、まあ」などと戸惑いながらも、わが子の成長ぶりに眼を細めているのだろう。春菊は父親が全部ちがう四人の子どもの母親だった。さぞ大変な時期があったものと思われるが、けろりとして(?)このような句を詠んだ。現在の替衣は六月一日と十月一日。しかし、そうした季節感は私たちの日常からは薄れてきてしまっている。今夏は節電の影響もあって、クールビズなるものがまたはやっているようだ。それでも和服のほうでは現在でも、前年十月〜五月:袷、六月:単衣、七〜八月:薄物、九月:単衣、とされているらしい。基角に「越後屋に衣さく音や替衣」の名句がある。『命の一句』(2008)所載。(八木忠栄)


May 3152011

 水飲んで鈴となりけり更衣

                           岡本 眸

いコーヒーやお茶よりも、冷たい水をおいしいと思う陽気になった。ことに猫舌でもあるので、熱いものを喉へと流すおっかなびっくり感から解放され、躊躇なくごくごく飲めるというだけでも大いなる快感である。掲句の鈴は、まさに水が喉から胃の腑に届くあたりの感触を指しているのだと思う。ころんころんと水が収まっていく。身体の真ん中からすっと涼しくなるような心地よさが、薄着となった四肢にも響いてくるようだ。制服のある学校の多くは、明日から夏服へと一新する。街に白さが際立つようになり、女の子たちの鈴を転がすような笑い声がもっとも似合う季節でもある。『流速』(1999)所収。(土肥あき子)




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