五月尽。梅雨にも入ったし、なんとなく冴えない五月だった。(哲




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May 3152011

 水飲んで鈴となりけり更衣

                           岡本 眸

いコーヒーやお茶よりも、冷たい水をおいしいと思う陽気になった。ことに猫舌でもあるので、熱いものを喉へと流すおっかなびっくり感から解放され、躊躇なくごくごく飲めるというだけでも大いなる快感である。掲句の鈴は、まさに水が喉から胃の腑に届くあたりの感触を指しているのだと思う。ころんころんと水が収まっていく。身体の真ん中からすっと涼しくなるような心地よさが、薄着となった四肢にも響いてくるようだ。制服のある学校の多くは、明日から夏服へと一新する。街に白さが際立つようになり、女の子たちの鈴を転がすような笑い声がもっとも似合う季節でもある。『流速』(1999)所収。(土肥あき子)


May 3052011

 愚かゆえ梅雨どしゃ降りを酒買いに

                           今江立矢

雨の句には、当たり前だが鬱陶しいものが多い。この句では、ご当人はさぞかし鬱陶しいことだろうが、読者にはむしろ明るく感じられる。ドジな人だなあと、可笑しくなってくるからである。酒くらい降ってない日に前もって買っておけばよいのに、それを選りに選ってどしゃ降りの中を買いに行くとはね。でも、そんな思いをしてまで買いに行くのが酒飲みというものだ。よほど今夜は飲むのをやめようかと何度も逡巡したけれど、結局は辛抱たまらずの外出なのだろう。降りしきる雨のなか、ズボンの裾を濡らしながら、おのれの愚かさを自嘲している。「愚かゆえ」には間違いないけれど、この愚かさは事情や場面が違えば、実はまた読者のそれでもあるだろう。だから、読者はこの句の作者に愛すべき人間像を見いだして、微笑することができるのである。まことに俳句とは「思い当たりの文芸」である。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


May 2952011

 わが死にしのちも夕焼くる坂と榎

                           加藤かけい

語は夕焼け。夕焼くるは「ゆやくる」と読みます。人の一生というのは、言うまでもなくその人にとっての「すべて」です。ところが、その「すべて」の外にも、なぜか依然として時は流れ、夕焼けはやってくるのです。自分の終わりが、この世の成り立ちにとって、それほどの出来事ではないのだと気づいてしまうと、ちょっとがっかりします。でも、なんだか気が楽にもなってきます。なにかの一部でしかないということの気楽さをもって、それでも日々に立ち向かってゆく人の命は、なんだか健気にも見えてきます。果てしない空を染める真っ赤な夕焼けは、たしかに坂道や木に似合っています、それでも、字余りになっても榎をここに置いたのは、高い空にすっきりと立つ姿を示したかったからなのでしょうか。あるいは作者の人生の、大切な道しるべにでもなっていたのでしょうか。『合本 俳句歳時記 夏』(2004・角川書店)所載。(松下育男)




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