各地で「さつき展」。手入れされ過ぎた花は好きになれない。(哲




2011ソスN5ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2552011

 幾度も寝なほす犬や五月雨

                           木下杢太郎

の俳句は「いくたびも……さつきあめ」と読みたい。「さみだれ」の「さ」は「皐月」「早苗」の「さ」とも、稲の植付けのこととも言われ、「みだれ」は「水垂(みだれ)」で「雨」のこと。梅雨どき、降りつづく雨で外歩きが思うようにできない飼犬は、そこいらにドタリとふてくされて寝そべっているしかない。そんなとき犬がよくやるように、所在なくたびたび寝相を変えているのだ。それを見おろしている飼主も、どことなく所在ない思いをしているにちがいない。ただただ降りやまない雨、ただただ寝るともなく寝ているしかない犬。いい加減あがってくれないかなあ。梅雨どきの無聊の時間が、掲句にはゆったりと流れている。杢太郎は詩人だったが、俳句も多い。阿部次郎らと連句の輪講や実作をさかんに試みたそうである。その作風は、きれいな自然の風景を描くといった傾向が強かった。他に「湯壷より鮎つる見えて日てり雨」「杯の蟲取り捨てつ庭の秋」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 2452011

 花蜜柑匂ふよ沖の船あかり

                           武田孝子

柑の花が咲く頃になると、街全体が清々しい香りで包まれる。作者の出身は愛媛というから、同じ蜜柑王国である静岡出身の私の気分は大いに満たされる。少女時代、周囲を見回せばどこにでもあった穏やかな山々は、どこもいっぱいの陽光を注がれ、蜜柑の花を咲かせていた。童謡の「みかんの花咲く丘」もまた「思い出の道、丘の道」と起伏の多い土地であり、「遥かに見える青い海、お船が遠く浮かんでる」と、思わず重ねてしまうが、しかし掲句の眼目は夜であることだ。船の灯す沖の明かりの他は、ただ波音が繰り返される闇のなかに作者はいる。白く輝く花の姿はないが、作者にはまざまざと見えている。そしてその闇に咲き匂う純白のたたずまいこそ、作者が愛してやまない故郷そのものなのだろう。蜜柑の花は蜜柑の匂いがする。それをしごく当然と思っていたが、林檎や梨の花にはまったく果実の匂いがしない。こんなことにもなんとなく誇らしく思えるのだから、故郷というのは素敵である。『高嶺星』(2006)所収。(土肥あき子)


May 2352011

 夕わけて竹の皮散る酒の中

                           清水基吉

は静かに飲むべかりけり。日本酒が飲めない私でも、こういう句を読むと、しみじみとそんな気がしてくる。薄暮の庭でも眺めながら、ひとり静かに飲んでいるのだろう。実際に竹が見えているのかどうかはわからない。見えていないとすれば、竹が皮を脱ぐときにはかすかな音がするので、それとわかるのだ。よほど静かな場所でないと聞こえないから、音が聞こえていると解したほうが、より情趣が濃くなる。夕暮れの淡い光のなかで時折はらりと竹の皮が散るさまは、それだけでも作者の孤独感を写し出しているように思われるが、散った皮がはらりはらりと「酒の中」へ、つまり少し酔った状態のなかへと散りかかるというのだから、寂しくも陶然とした作者の心持ちが表されている。孤独の愉しさ……。酒飲みのロマンチシズムもここに極まった、そんなおもむきのある句だ。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川書店)所載。(清水哲男)




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