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2011ソスN5ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1952011

 遠雷や生命保険の人が来る

                           渡辺隆夫

本邦雄に「はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を賈りにくる」(「日本人霊歌」)という短歌があるが、たぶんそれを踏まえて作られているのだろう。確かに尋常に考えれば自分の命に値段をつけているわけで、保険というのはコワイしろものだ。塚本の短歌は光っているのは保険屋の汗であるが、掲句の場合は光るものは遠雷である。遠雷は遠來にひっかけてある。普通に考えれば何でもない文脈だが、読み手が塚本の短歌を思い浮かべるだろうことを想定して作られた句だと思う。作者は川柳人。もとの材料にちょいと毒や仕掛けがさりげなく盛られている。季語や故事来歴を逆手にとって詠む。「月山が死後の世界だなんて変」「亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む」なんて図を想像するとおかしくなってしまう。大真面目な俳人がおちょくられている。『魚命魚辞』(2011)所収。(三宅やよい)


May 1852011

 鶯の声もさびたり青葉山

                           仮名垣魯文

は「春告鳥」とも呼ばれるように、春になってさえずりはじめる。その美声は言うまでもない。だから、声の良い人のことを「うぐいす芸者」とも呼ぶ。さえずりはじめの頃は、まだ覚束ないところもあって妙に愛嬌があるものだけれど、時経るにしたがって錬られて美声になってくる。三年前、紫陽花の時季に鎌倉の山あいに出かけた折、複数の鶯がもったいないくらいにしきりに啼くのを聴いた。石に腰をおろして、いつまでもただ聴き惚れていたっけ。人を酔わせてくれたさすがの美声も、やがて青葉繁れる夏本番になってくると「さび(錆)」が生じてきて、次第に衰えてしまう。そうなると、夏の季語「老鶯」の登場となる。年老いた鶯という意味ではない。『年浪草』に「初春声を発し、夏に至りて止まず。しかれどもその声やや衰ふ。ゆゑにこれを老鶯といふ」とある。トシではなく声の問題である。青葉が勢いを増してくる山あいで啼く鶯の声は、対照的に衰えを隠せないといった光景である。「老いたり」ではなく「さびたり」はうまい。江戸文学から明治文学へ、その橋渡し的役割を果たした魯文の代表作は「安愚楽鍋」「西洋道中膝栗毛」。俳号は香雨亭応一と名乗った。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 1752011

 田水張る静謐といふ四角形

                           安徳由美子

前は6月上旬に一斉にしていた田植えも、現在ではゴールデンウイークに合わせて早めになったという。田植えを前に土をおこしたり、畦を作ったり、下準備を経て、いよいよ水を満たした田は、凛と張りつめした静謐そのものといった風情になる。全面に空を映し、鳥の影が渡り、わずかな風にささやかなさざ波を立てる。頼りない苗が風になびく植田は、青々と力強い青田へ、そして秋には黄金色の稲穂が揃う。この美しい移り変わりが、都会ではもう間近には見られないようになってしまった。田の漢字のありようが、耕作地と畦道であることをいつまでも当然と思いたいものだ。今月末、ようやく雪が消えて、準備が整った新潟に田植えをさせてもらいに行く。機械が余した片隅や変形部分を手植えする補植を体験する。はたして手伝いになるのか、どうか。しかし田水の張った聖なる四角に足を踏み入れるチャンスに、胸は高鳴るばかりである。〈ひしひしと我一人なり春の暮〉〈この坂を上れば未来花なづな〉『藻の花明かり』(2011)所収。(土肥あき子)




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